「デビュー20周年の今年で『けじめ』をつけ(本名の)北村春美に戻ることにしました」
かねてから「普通のおばさんになりたい」と公言していた都はるみが、東京・赤坂のコロムビアレコードで記者会見に臨み、年内での歌手引退を宣言。それが1984年3月5日だった。
そしてその年の12月31日、最後のステージであるNHK紅白歌合戦に出演。引退アナウンスの「相乗効果」もあり、同年の紅白は歴代4位となる視聴率78.1%を記録。しかも、彼女が登場したシーンはなんと84.4%という、とてつもない数字を叩き出したのである。
その後、彼女は恋人の中村一好氏とともに、(株)プロデュースハウス都を設立。大和さくらやキム・ヨンジャをプロデュースする一方、テレビ朝日「サンデープロジェクト」などの制作に携わってきた。
だが、長年スポットライトを浴び続けてきた歌手がいきなり裏方に回ることには、相当の決意と覚悟がいるものだ。そして周りが放っておくはずもない。
自然の流れというべきか、再び「紅白」の舞台に「特別ゲスト」として立ったのが、5年後の1989年12月31日である。
この年は紅白が始まってちょうど40年という節目。NHKは1部、2部制を敷き、1部の目玉として都を引っ張り出した。その1部の視聴率は38.5%にとどまったものの、彼女が出演時の瞬間視聴率は53.1%を記録。低迷する紅白に、瞬間的とはいえ「神風」を吹かせたことは間違いない。
だが、さすがに5年ぶりのカムバックとあって、ステージ上では緊張でガチガチ。「普通のおばさん」に戻ったのかと思いきや、NHKスタッフを取材すると、
「本人いわく『アンコ椿は恋の花』の1コーラス目でマイクを落としそうなり、落とさないようにグッと握っていたため、歌い終わった時には左手の親指が動かなくなったのだと。よく映画なんかであるでしょ、拳銃を握った指が離れなくて、1本ずつ指をはがすシーンが。まさにあんな感じだったみたいでね。ただ、歌の迫力は引退前となんら変わらぬ素晴らしいものだった。文字通り、はるみ節健在といったところでしたよ」
翌1990年には歌手活動の完全復帰を発表。その後は精力的に歌ってきた。ところが2008年4月、公私にわたるパートナーだった中村氏が、突然の死去。個人事務所を畳み、古巣のサンミュージックに戻ることになった。
とはいえ、心の中にぽっかりとできた穴は、なかなか埋まらなかったのだろうか。8年間の活動を経て2016年、ラジオ出演を最後に、表舞台から姿を消すことになる。
そんな彼女が東北にあるビジネスホテルでの、元俳優の矢崎滋との同棲現場を「フライデー」されたのが2021年。あの引退記者会見から実に37年である。ポッカリと空いた心の穴を埋めてくれる男性と出会った彼女は、ようやく念願だった普通のおばさんになれたのかもしれない。
(山川敦司)
1962年生まれ。テレビ制作会社を経て「女性自身」記者に。その後「週刊女性」「女性セブン」記者を経てフリーランスに。芸能、事件、皇室等、これまで8000以上の記者会見を取材した。「東方神起の涙」「ユノの流儀」(共にイースト・プレス)「幸せのきずな」(リーブル出版)ほか、著書多数。