「デビュー20周年の今年で『けじめ』をつけ(本名の)北村春美に戻ることにしました」
会見場となった東京・赤坂の日本コロムビア本社に集まった300人を超える報道陣を前に、開口一番、こう語った都はるみ。1984年3月5日、この時、36歳。早すぎる引退に当時、私が籍を置く週刊誌は特集記事を企画。歌手生活「最後の1週間」に密着することになった。
その挨拶のため、所属事務所「サンミュージック」を訪れると、相澤秀禎社長(当時)同伴で、彼女は出迎えてくれた。その表情は晴れ晴れとしたというものからはほど遠く、ひどく疲れて見えた。
都は私生活で、まさに歌のような悲恋を経験していた。それが、音楽ディレクターである中村一好氏との「ただならぬ関係」だった。中村氏は石川さゆりの「天城越え」や美空ひばりの「おまえに惚れた」などを手掛けた敏腕。都の「大阪しぐれ」「浪花恋しぐれ」を担当したことで、交際に発展した。中村氏には妻子がおり、離婚調停が続いていた。当初、都は「彼が離婚したら結婚を考えます」と語っていた。
だが交際発覚から4年間の同棲を経るも、状況に変化は見られない。つまりこの引退宣言は「結婚が叶わないなら事実婚でいい。そのためなら大好きな歌を捨てます」という彼女の決意表明だったのではないだろうか。
密着取材は12月24日の「最後の記者会見」からスタート。そして大晦日の「レコード大賞」「年忘れにっぽんの歌」「第35回NNK紅白歌合戦」の舞台へと続くことに。
「デビュー20年。そして、紅白出場20回。その歌手がこの舞台を最後に、別れを告げるのです!」
そう叫ぶ司会、森光子の声を受けて、舞台裏の彼女は着物の帯をポンと叩くと、「よし!」と力いっぱいこぶしを握りしめる。
最後の曲として選んだのは「夫婦坂」だった。渾身の思いを込め歌い尽くし、そして燃え尽きた。紅白が終わり、時計の針は既に午前1半時を指していた。私は車に乗り込む都に尋ねた。
──本当に歌うことに未練はないんですか。
「これで、ようやく普通のおばさんに戻れるもの…。未練はないです」
──あなたにとって「歌」とは何だったんですか。
「そうですね、この20年間、いちばん大切なものでした」
──つまり、それより大切なものができたと?
「う~ん、どうかな…。記者さんも1週間、本当にご苦労さまでしたね」
そう言って彼女が差し出した手の冷たい感覚は、今も鮮明に残っている。
山川敦司(やまかわ・あつし):1962年生まれ。テレビ制作会社を経て「女性自身」記者に。その後「週刊女性」「女性セブン」記者を経てフリーランスに。芸能、事件、皇室等、これまで8000以上の記者会見を取材した。「東方神起の涙」「ユノの流儀」(共にイースト・プレス)「幸せのきずな」(リーブル出版)ほか、著書多数。