日本に皇帝ナポレオンを紹介した蘭学者・小関三英は捕縛前に自害したが、これは牢内で行われた恐怖の殺人方法にあったとされている。
それは「玉」を蹴り上げるという「陰嚢蹴り」だ。陰嚢への衝撃があまりに大きいと、痛みのあまり血圧低下や嘔吐、意識障害などを引き起こし、死に至ることがあるという。
天明7年(1787年)に出羽・鶴岡に生まれ、長崎で医師シーボルトに師事したとされる小関は、幕府の天文方阿蘭陀書籍和解御用、つまり翻訳係となった。この頃から渡辺崋山や高野長英といった蘭学者と親交を持っていたが、彼らが蛮社の獄で牢につながれたことで、運命の歯車は狂う。連座を恐れたからだ。
現在でもそうだが、罪を犯した人物が逮捕を恐れて自殺するケースはある。だが小関には特に処罰されるほどの罪がなく、自害は早計だったとの意見が。牢内で頻繁に行われていた「ある殺人方法」が、自殺への背中を押したというのだが…。
江戸時代の牢屋暮らしは、死罪になった方がマシだといわれたほどの、生き地獄だった。特に悪名が高かったのは、時代劇や小説に登場する小伝馬町の牢屋敷だ。
責任者は代々、世襲で石出帯刀を名乗り、その配下には40人から80人程度の牢役人のほか、牢内を取り締まる下級役人である獄丁が50人ほど。だが、牢屋内を実際に取り仕切っていたのは、幕府公認の自治組織だった。
その定数は各監房で牢名主以下12人。牢名主は入牢者が増え過ぎてすし詰め状態になると、平の囚人の中から適当に数人をチョイス。陰嚢蹴りで囚人を間引くよう指示した。これが3日おきに繰り返されたという。
新参の囚人は牢入りの際、先輩格の囚人から「命の蔓(つる)を持ってきたか」と尋ねられる。「命の蔓」とは金のことだが、一文無しには悲惨な運命が待っていた。
縄で縛り上げられ、板や棒で叩かれたあげく床に転がされ、翌朝は熱病人がいるスペースに放置される。ここで熱病に感染して死ななければ、牢屋敷への通過儀礼にパスしたことになる。
それでも10両ほどの「命の蔓」を持参しなければ、いつ「陰嚢蹴り」の対象者になるか分からない。まさに「地獄の沙汰も金次第」。男なら小関が抱いた恐怖を、いやというほど理解できることだろう。
(道嶋慶)