「死」は生物にとって切り離せない宿命です。逃れられないからこそ、誰もがいい「死」を迎えたいと望むのではないでしょうか。
では、いい「死」とは何なのか。その答えを私に教えてくれたのが、仏教学者の鎌田茂雄先生です。
ある対談でお会いしたとき、鎌田先生は江戸時代の医者、虚室生白〈きょしつしょうはく〉が書いた「猿法語」という書物の一節を読み上げました。
「人が死ぬ時は、悲しんで打ちひしがれようと、泣きわめこうと、どういう死に方をしてもいい」
それに対して先生は、こうおっしゃった。
「こうは書いてありますけど、きちんと生きていれば、泣きわめいたり悲しみで打ちひしがれたりして死ぬことにはならないはずです」
鎌田先生は01年にお亡くなりになりました。死の直前まで私は何度も見舞いに行きましたが、ご自身が宣言したとおり、いよいよ迫り来る死に対して、悠々としていました。
きちんと生きることで、いい「死」を体現してくれたのです。
先生は「猿法語」の解説書を書きたいと願いながら書かずに亡くなったので、代わりに私が書こうと古本屋で買いました。忙しくてなかなかできませんが、いずれ‥‥と思ってはいます。
話を「死」に戻しましょう。1度きりの人生で「死」はラストシーンだからこそ、自分で演出したほうがいいと私は考えています。ラストシーンがいい映画はみんな名作ですよね。私が好きな「第三の男」「駅馬車」、全てラストシーンは名場面です。「カサブランカ」のように、ハンフリー・ボガートとクロード・レインズの2人がしゃべりながら霧の中に消えて行く──。あんなラストもいいですよね。
しかし、死ぬ瞬間というラストシーンを演出するといっても、その場で急に名場面を作り上げることはできません。だから、ふだんからイメージを何種類か持っておくといいでしょう。
五木寛之さんと死に関する話をした時、彼はこう言いました。
「林の中で野垂れ死にしたい」
あれだけの大家なのに、最後は林の中で野垂れ死にですよ。お釈迦様にあやかっておられるのでしょうね。お釈迦様は北インドの林の中で下血して死んだんですが、それが念頭にあるんだと思います。
で、「帯津さんは?」と聞かれたので、
「野垂れ死には嫌ではないですけど、家の中ではなく外で死を迎えたいです」
理由は、住んでいるマンションのエレベーター。小さくて、家で死んだら運び出す人が、私を立てて運び出さなければならなくなってしまうんです(笑)。それじゃああまりにも申し訳ないから外で死ぬほうがいいだろうと。
ただ、「林の中はごめんですね」と言いました。「じゃあどこで?」と聞かれたので、
「東京下町は谷中の居酒屋に入ろうとして、戸に手をかけたとたんにドーンと倒れるのがいい」
と答えました。
◆プロフィール 帯津良一(おびつ・りょういち) 医学博士。東大医学部卒、同大医学部第三外科、都立駒込病院外科医長などを経て、帯津三敬病院を設立。医の東西融合という新機軸をもとに治療に当たる。「人間」の総合医療である「ホリスティック医学」の第一人者。