高校野球は今年の夏もいいものを見せてもらった。甲子園で懸命にプレーする球児たちの姿を見ていると、この年になってもいろんなことを教えてもらえるし、昔のことも思い出す。
延長11回でサヨナラ決着となった大社と早実の3回戦は、両チームに感動をありがとうと言いたい。京都国際が関東一を延長タイブレークで下した決勝戦もテレビに釘づけやった。緊張感のあるゲームで0-0のまま9回が終わって、10回は無死一、二塁から。そら、投手は平常心では投げられない。先攻の京都国際が押し出し四球と犠飛で2点を取り、その裏の関東一は1点止まり。何か無理やり決着つけさせたみたいで可哀相やった。決勝戦ぐらい完全燃焼させてやりたい。タイブレークにするにしても、せめて12回以降にできへんのかな。
でも、京都国際で延長10回の先頭打者の代打でヒットを打って、その裏はマウンドに上がって1点に抑えた2年生の左腕・西村クンは大したものやった。チェンジアップとスライダーを操り、今大会は24イニングを自責点0で終えた。
僕らの高校時代はチェンジアップを投げる投手なんていなかった。大阪学院の江夏豊もカーブだけやったが、あの剛速球は打てる気がしなかった。3年夏の大阪大会は準決勝の1試合目で江夏の大阪学院が興國に負けて、僕ら大鉄は2年連続で負けていたPL学園に勝てた。興國にも勝てると思っていなかったが、1学年下の江夏と当たっていたら得点はできなかったと思う。「あれは打てんよ」と、試合を見ながらチームメートと話していた。
運よく甲子園に出場できたのは、実は下級生の頑張りが大きかった。3年生はやっぱり最後の夏は緊張したり、力んだりしてしまう。京都国際の西村クンも2年生やから、余計なことを考えずに腕を振れたんと違うかな。3年生の時は、僕が1番・センターで、3番が2年生の一塁手、5番が1年生の三塁手やった。その1年生が甲子園を決める決勝タイムリーを打ってくれた。頼もしい後輩は社会人野球の松下電器でもチームメートとなった。でも、ある日、何も言わずに忽然と姿を消してしまった。実はそれ以来、連絡がつかなくなった。今でも大鉄時代の仲間と会って、昔話に花を咲かせるけど、誰も消息を知っている者はいない。
真面目なタイプやったから余計に謎が残っている。松下電器の野球部は待遇面もよかったから、よほどのことがあったんやろね。当時の給料は、月給で約1万5000円ほど。野球部は給料とは別に栄養費として毎週2000円をもらっていた。当時はタクシーで繁華街に遊びに行けるほどのお金で、加藤秀司なんか、2000円を握りしめて、すぐに出かけていた。消息を絶った彼は、加藤とは真逆のタイプ。考えすぎて、アカンかったんかな。野球もセンスがあっただけに、もったいない。
僕らは甲子園で秋田高が相手の1回戦で延長13回で負けた。1試合しかできなかったけど、何十年たっても仲間との甲子園の思い出話は盛り上がる。優勝した京都国際だけでなく、負けた関東一も最高の思い出を作れたと思うよ。甲子園に出られなかった高校も、青春のすべてをかけた仲間たちとは永遠の絆がある。
アイツ、何しているんかな。夏の甲子園の時期にはいつも思い出してしまう。
福本豊(ふくもと・ゆたか):1968年に阪急に入団し、通算2543安打、1065盗塁。引退後はオリックスと阪神で打撃コチ、2軍監督などを歴任。2002年、野球殿堂入り。現在はサンテレビ、ABCラジオ、スポーツ報知で解説。