〝トト〟の愛称で親しまれたサッカー元イタリア代表のサルバトーレ・スキラッチ氏が9月18日、59歳という若さで帰らぬ人となってしまった。スキラッチ氏は結腸がんを患って闘病生活を送っていた。
自国開催の90年イタリアワールドカップ(W杯)では、7試合で6ゴールを挙げて得点王に輝き、大会MVPを獲得。
クラブでは、セリエA(イタリア)の名門ユヴェントスやインテル・ミラノでプレーした後、94年にジュビロ磐田に電撃加入して日本中を驚かせたが、引退するまで在籍した4シーズンの間で、リーグ戦78試合に出場して56得点をマークした。
正真正銘の「本物」は記録だけではなく、記憶に刻まれる数々の伝説を残している。当時を知るサッカー関係者がこう話す。
「メンタルは唯我独尊の〝オレ様〟系のストライカーでした。試合に負けようが、自分が点を取っていれば『オレは決めたぞ』と得意げに話して上機嫌。一方で、試合に勝っても自分が無得点だと、すこぶる機嫌が悪くてチームバスのイスを蹴ることがありました」
気分屋な性格で、チームを率いるハンス・オフト監督が手を焼いたことがあった。
「試合に出場すれば大活躍してくれますが、コンディションが悪いと欠場することがしばしば。当日になって『足が痛い』と言って練習に来なくなるので、それまではエース特権で調整を任せていましたが、さすがにオフトの堪忍袋の緒が切れて、サテライトの試合に出場して調整するように命じていましたね」(前出・サッカー関係者)
普段は温厚で朗らかな笑顔が印象的だが、サッカーをしている時は〝瞬間湯沸かし器〟で、すぐにカッとなってしまう性格の持ち主だった。
来日1年目のジェフユナイテッド市原戦で警告を出した主審のシャツの襟をつかむという、サッカーではあまり見たことのない光景を繰り広げて退場処分を受けたことがあれば、翌年の浦和レッズ戦ではDFにペナルティエリア内で倒された際、主審の笛が鳴らなかったことで試合中にユニフォームを脱ぎ始めて捨て身の抗議をしたことがあった。
「お騒がせ行為は選手にも牙を向き、ヴェルディ川崎(現・東京ヴェルディ)との試合終了後、川崎の柱谷哲二が握手を求めて手を差し出すといきなりビンタをしたんです。マッチコミッサリーから事情聴取を受けて『イタリアでは褒める意味で頬を叩く』と、習慣の違いで押し通しました」(前出・サッカー関係者)
これだけでも十分な逸話だが、主審や相手だけではなく、時にはチームメイトにさえ暴れん坊は容赦しなかった。
96年に同じポジションのFW武田修宏が新加入すると、お互い、練習中からライバル意識をむき出しにしていた。
当時、日本代表の中山雅史とスキラッチがツートップを組んでいたため、オフト監督は武田をウイングバックで試して紅白戦が行われたのだが…。
「武田がスキラッチをマークすることになり、何度か激しいスライディングタックルを仕掛け、ピリピリした空気が流れていました。そんな最中、今度はスキラッチがシュートをする瞬間、防ごうとした武田が足を踏んでしまったんです。すぐさまスキラッチが胸ぐらをつかんで顔面に強烈な頭突き。武田は2本の歯が折れて練習は中止になりました。それでも武田は『練習で言い争いはよくあること』といってチームメイトをかばうと、スキラッチは自分の絵柄の入ったテレホンカードをプレゼントして和解したのです」(前出・サッカー関係者)
ヤンチャだが愛すべき世界的ストライカーがJリーグでプレーしてくれたことに感謝の気持ちを込めて。合掌。
(風吹啓太)