来季から西武ライオンズ1軍の指揮を執ることが濃厚になった西口文也2軍監督にまつわる、伝説的なエピソードがある。
西口はプロ入りまで、あまり派手な実績を残していない。和歌山県立和歌山商業時代は、1990年夏の甲子園大会で県予選準々決勝に進んだのが最高記録で、立正大学入学後も東都大学野球リーグ二部と一部を何度も行き来している程度の選手だった。
そんな西口がブレイクしたのは、プロ入り2年目の1996年。当時の東尾修監督が率いるチームで開幕から先発ローテーションの一角を占め、日本ハムのキップ・グロスに次ぐ16勝。奪三振数(173)でも、工藤公康(ダイエー)に次ぐリーグ2位だった。この年、監督推薦で球宴に初選出され、年俸は1400万円から4300万円(金額はともに推定)に大幅アップしたが、実は球史に残る監督賞をゲットしたという話が、チーム内で語り次がれている。スポーツ紙遊軍記者が振り返る。
「シーズンが始まる前、東尾監督と西口がある約束をしたそうです。それは西口が1勝するごとに、東尾さんが100万円のボーナスを支払うというもの。東尾監督は同じ和歌山県出身ということで、入団してからずっと西口に期待し、かわいがっていましたからね。でもさすがに16勝となると、ボーナスは1600万円ですからね。本当に支払われたとしたら球史に残る監督賞だと、一部でウワサになっていました」
どのチームでも、大事な試合で活躍した選手に対し、監督が自らのポケットマネーで監督賞を出すケースは少なくない。それでも通常は10万円程度。100万円を超す監督賞など稀だ。前出の遊軍記者は、
「当時の担当記者が、西口が勝つたびに東尾監督にボーナスの話をするものだから、最後は監督もうんざりしていたようです」
一説には東尾監督が西口を銀座のクラブで豪遊させたという話もあるが、真相はやぶの中。球界都市伝説のひとつだ。
(阿部勝彦)