武藤敬司、小島聡、ケンドー・カシンが2002年1月31日付で新日本プロレスを退団。3人はフリーとなったが、全日本プロレスに行くのは明白だった。
その翌日の2月1日、新日本の札幌・北海道立総合体育センターで蝶野正洋が仕掛けた。武藤らの退団の大きな理由がオーナーであるアントニオ猪木の「格闘技路線」にあることを痛感していた蝶野は、第5試合で天山広吉&後藤達俊とのトリオで藤波辰爾&長州力&越中詩郎に勝利すると「我々の上にひとり神がいる。ミスター猪木!」と、猪木をリングに呼び入れ、観客の前で「ここのリングで俺はプロレスをやりたいんですよ!」と訴えたのだ。
蝶野は猪木に「新日本のプロレスを守っていく」という趣旨の発言を期待したが、猪木は「お前はただの選手じゃねえぞ、これから。いいか、プロレス界を仕切っていくような器量になれよ、どうだ!?」と想定外の切り返し。
蝶野は「猪木さん、俺にすべて任せてほしい。この現場のすべてを俺がやりますよ。藤波、長州、ここは俺に任せろ、オラ!」と啖呵を切ったものの、実際には戸惑っていたという。この後、中西学、永田裕志、棚橋弘至、鈴木健想(現KENSO)もリングに上がって猪木と問答になったが、最終的には「俺に言うな。てめぇらの時代はてめぇらで作れよ!」という猪木の言葉に全員が丸め込まれてしまった。やはり猪木は一枚も二枚も上だった。
当時の新日本の内情はガタガタだった。格闘技路線反対派の長州は、前年01年春に現場責任者から外されてマッチメーク委員会が組織された。ところが委員会会長の渡辺秀幸は、武藤と行動をともにして新日本を退社してしまったのである。
さらに長州の右腕として様々な仕掛けをしてきた、永島勝司取締役企画宣伝部長は全日本との対抗戦を推進してきたが、武藤ら3選手と幹部社員5人の全日本移籍の責任を取り、2月末日に退社した。
そして長州は2月5日に行われた幹部会の後、猪木に「もう僕は会長と一緒にやっていくっていうものには足が出ていかない」と辞意を伝え、4月8日に倍賞鉄夫専務取締役に辞表を提出。藤波社長が4月20日にこれを受理して、5月末日付での長州退団が決まった。
「辛い時期だったね。辞めていった人間の気持ちもわかりますよ。僕も長州と同じ状況になっていたかもしれないけど、たまたま僕は社長だったし、猪木さんにも新日本を何とかしたいという気持ちがあることはわかっていたから」とは後年になっての藤波の言葉だ。
2.1札幌以降、欠場を続けていた長州の新日本ラストマッチは4月25日。故郷の徳島市総合スポーツセンターにおける、佐々木健介&吉江豊と組んでの蝶野&天山&後藤との6人タッグマッチ。5月2日の東京ドームには出場しなかった。
こうした中、猪木に現場責任者を任命された蝶野の急務は、新日本旗揚げ30周年記念興行となる5月2日の東京ドームを成功させること。蝶野が協力を仰いだのはプロレスリング・ノアの三沢光晴である。
99年春、馳浩の仲介によって三沢と三銃士(武藤、蝶野、橋本真也)の会談が実現し、この時に「自分以外の周りのことを考えている人」と蝶野に好印象を持っていた三沢は二つ返事でOK。これにより5.2東京ドームは蝶野VS三沢という目玉カードが生まれ、5万7000人を動員した。
この日が現場責任者デビューとなった蝶野は、猪木とともに各試合をモニターでチェックし、花道奥のバックステージに滑り込んだのは試合開始5分前。試合は30分時間切れ引き分けとなったが、三沢は「蝶野選手は、いろいろ仕切って走り回って疲れていた状況だったし、かわいそうっていうか‥‥向こうの方が不利なわけでしょ。だから、シビアになれないところがどうしてもあったよね」と語っていたものだ。
蝶野は「あの試合がなかったら、新日本は間違いなく潰れていただろう。三沢社長は新日本を救ってくれた方舟だった」と今も三沢の男気に感謝している。
この東京ドームでは30周年記念セレモニーが行われて、14年ぶりに船木誠勝も新日本のリングに上がるなど恩讐を越えて多くの関係者が集まったが、長州は控室で懐かしい面々と談笑しただけでセレモニーへの出席はキャンセルし、大会途中で帰途についた。
5月31日、長州が新日本の道場で最後の記者会見。退団の引き金になったのは武藤らの全日本移籍騒動‥‥特に幹部社員たちの退社だとした上で、格闘技路線を強行し、さらにはロサンゼルス道場に資金を注ぎ込む猪木を批判。「あの人には感謝すらないですね、俺は。ウン、ない!」という言葉まで飛び出したのだった。
新日本では取締役営業部長だった上井文彦が6月12日の株主総会で渉外・宣伝担当の取締役に就任して蝶野の右腕に。新日本は90年代黄金時代を築いた長州&永島体制から蝶野&上井体制に移行したのである。
小佐野景浩(おさの・かげひろ)元「週刊ゴング編集長」として数多くの団体・選手を取材・執筆。テレビなどコメンテーターとしても活躍。著書に「プロレス秘史」(徳間書店)がある。