1987年3月23日、新日本プロレスへのUターンが囁かれる中で、長州力は東京・池尻のジャパン・プロレス本社で記者会見。3月末日で満了となる全日本プロレスとの契約を更新せずに、完全独立して全日本と新日本の両団体との交流を目指すことを発表した。
しかし、2日後の25日、長州は信じられない行動に出る。大阪ロイヤルホテルにおける「INOKI闘魂LIVE PARTⅡ」前日のレセプションでのアントニオ猪木とマサ斎藤の調印式に、マサのサイン済みの調印書を持って出現。猪木と握手したのである。
長州は「マサさんは明日の午前中までトレーニングしたいということで、自分が代理として来た次第。ただそれだけです」と説明したが、調印書を届けるならジャパンの事務員でもよかったはず。これは明らかに〝その先〟のための絵作りとしか思えなかった。
長州の大阪出現を知らされたジャイアント馬場は、ただちに専任弁護士と会って対応を協議。「長州がしたことは、全日本との契約に反するもの。何らかの措置を講じなければならないだろう」という怒りのコメントを出し、その裏ではジャパンで長州に次ぐナンバー2の谷津嘉章の1本釣りに動いていた。
実は、谷津は長州に同行して大阪に行くことになっていたが、本心では新日本に出戻ることに抵抗があって、長州と約束していた新幹線に乗らなかった。
その谷津に「お前に2000万円出してもらえるように馬場さんに言うから」と声を掛けたのが永源遙だ。永源はジャパンの選手会長として馬場とマッチメークなどの交渉をしていたが、この段階では馬場派で、ジャパンがどうなろうとも全日本に残留することを決めていたのである。
迷わず全日本との契約にサインした谷津は「長州さんたちが新日本にUターンしたのは必然だったよな。プロレスのスタイルも全然違うし、リズムも合わなかったし。たぶん、全日本の組み立てていく試合スタイルが面倒臭かったんだと思うんだよ。反対に俺は〝全日本のプロレスは面白い〟って思い始めていたから、永源さんを通じて馬場さんに1本釣りされたんだよ」と当時を振り返る。
3月26日、大阪城ホールでは予定通り猪木VSマサの一騎打ちが行われたが、海賊男の乱入で試合はぶち壊しになり、マサの反則負けという結末に不満を爆発させた観客が暴徒と化して機動隊、消防車が出動する異常事態となった。
なお、調印式終了後に帰京した長州は、28日に後楽園ホールで開幕する全日本の「チャンピオン・カーニバル」に予定通りに出場する構えを見せていたが、馬場は黙っていなかった。
試合前日の夜10時過ぎ、単身でジャパン本社に乗り込んで長州、竹田勝司会長、大塚直樹副会長、加藤一良専務と話し合いの場を持にって契約内容を改めて確認した上で「全日本とジャパンは新たに契約を結び、マサも含めて全選手が全日本に出場する」という結論を導き出したのだ。
だが、28日の後楽園当日にまたまた事態は急展開。午後1時半過ぎに長州の懐刀の加藤専務が馬場に電話を入れて長州が出場しないことを伝え、長州も直接電話に出て、馬場に出場の意思がないことを通告した。そしてジャパン本社には長州、加藤専務、マサ、小林邦昭、寺西勇、保永昇男、カルガリー・ハリケーンズのスーパー・ストロング・マシン、ヒロ斎藤が集結。合宿所組の笹崎伸司、佐々木健介、大阪在住で前夜から合宿所に泊まり込んでいた栗栖正伸もいた。
当時、週刊ゴングの全日本&ジャパンの担当記者だった筆者はジャパン本社を張っていたが、後楽園に向かったのは栗栖だけ。午後5時過ぎに竹田会長、大塚副会長が駆けつけてきて籠城する選手たちの説得に当たったものの、長州と加藤専務は辞表を提出。結局、後楽園に姿を見せたのは谷津、永源、栗栖、仲野信市(首の負傷で試合は欠場)の4選手のみ。その後、寺西もシリーズに合流した。
30日、ジャパンの代表権を持つ竹田、大塚の両氏は自分たちも新日本と接触していたことを認めた上で、長州の追放を発表。
そして3月28日にジャパン本社にも後楽園にも姿を見せずに中立の立場を取っていたアニマル浜口は、4月6日付でマスコミ各社に直筆の手紙を送付して引退を表明した。
長州、浜口、谷津、小林、寺西の維新軍団5選手が84年9月21日に新日本から電撃移籍してスタートしたジャパン・プロレスだが、2年半で空中分解という結末を迎えた。
「俺の夢は1枚の切符で全団体の選手が見られる興行だったんだ。猪木さんからは全面的に協力するという確約を貰った。でも馬場さんはああいった調子でらちが明かない。結果的にジャパンが割れた‥‥」と、長州はジャパンを去った。革命戦士も馬場&猪木のBI2大巨頭がしのぎを削り、支配するプロレス界を変えることはできなかった。
小佐野景浩(おさの・かげひろ)元「週刊ゴング編集長」として数多くの団体・選手を取材・執筆。テレビなどコメンテーターとしても活躍。著書に「プロレス秘史」(徳間書店)がある。