虚血性心疾患のため、10月17日に76歳で亡くなった西田敏行さんの葬儀・告別式が10月23日、都内の寺院でしめやかに営まれ、祭壇でほほ笑む遺影が、多くの参列者の涙を誘った。
西田さんは1947年、福島県郡山市で生まれた。中学を卒業後に上京すると、明大付属中野高校を経て、明治大学農学部を中退。その後、役者の道を志すことになるが、地元・福島に対する郷土愛を失うことはなく、だからこそ2011年3月に発生した東日本大震災の際には、福島第一原発事故に強い憤りをあらわにし、そして被災者に寄り添うべく、折に触れて帰省。イベントなどを開催し、少しでも福島県を元気にできればと、懸命に支援してきた。
そんな西田さんについて、忘れられない記者会見がある。震災から3カ月後の2011年6月14日に都内で行われた「NPOふるさと回帰支援センター」主催によるものだった。
同センターは都市と農山漁村を結ぶ、架け橋的支援を行っている団体だ。震災と原発事故により避難所暮らしを余儀なくされる被災者に対し、43県483自治体(2011年4月時点)が受け入れを表明している、との情報を幅広く共有させたいとして、宮城県出身の菅原文太の呼びかけにより実現したものだった。冒頭、西田さんは怒りと悲しみを込めて、こう言った。
「日本の経済発展のためには、なんとしても原子力発電所が必要である、日本の原子力発電所は絶対に事故など起きるはずがない、と豪語した方がいっぱいいらっしゃいました。でも、大事故が引き起こされてしまった。我々反対する立場の人間は『非現実的な夢想家だ』と。で、どんどん隅に追いやられて…。(中略)ジャック・レモンの『チャイナ・シンドローム』を見て、メルトダウンという状況にショックを覚えましたが、それがまさか現代の日本の原子力発電所で起こるとは…」
そして多くの被災者たちが、故郷を捨てなければいけないのか、と絶望の思いを募らせる中、映画「釣りバカ日誌」で全国の海を訪れてきた西田さんはこう続けた。
「大勢の漁師さんにもお会いしてきました。みなさん、自分の海に誇りを持っています。農家の人だって、作物を作るなと言われて『自分の仕事は農業です』と言えない、このつらさ。みんな仕事にプライドを持っている。悔しいという思いと『事故は起きるはずがなかったんじゃないの?』という怒りがこみ上げます」
福島に生まれ、福島の食材で育ち、福島人として誇りを持って生きてきた西田さん。だからこそ、言葉の端々からにじみ出るその思いは、まさに県民の心の叫びだった。そんな西田さんの訃報が日本列島を駆け抜けたのは、この記者会見から13年足らずのことだったのである。
(山川敦司)
1962年生まれ。テレビ制作会社を経て「女性自身」記者に。その後「週刊女性」「女性セブン」記者を経てフリーランスに。芸能、事件、皇室等、これまで8000以上の記者会見を取材した。「東方神起の涙」「ユノの流儀」(共にイースト・プレス)「幸せのきずな」(リーブル出版)ほか、著書多数。