── そして、87年に天龍革命(レボリューション)をスタートさせてトップに駆け上がりました。
天龍 その前に長州力選手が全日本に来て、好きなことをぶつけ合うというプロレスを仕掛けてきた。そのことで13歳から相撲をやってきた闘争心に火をつけられたんですよ。「これが俺のイメージしていたプロレスだ!」ってハマっちゃったんです。それで長州選手が新日本に戻ったあとにラグビーの世界選抜メンバーにもなった阿修羅・原選手に「源ちゃん、ガンガンやらなきゃプロレスは舐められるよ」って言われて、意気投合してレボリューションですよ。俺も阿修羅もそうだし、(天龍同盟は)冬木弘道、川田利明、小川良成、折原昌夫‥‥みんな斜に構えたひねくれ者の集まりでしたね(苦笑)。
俺と鶴田選手に付け人がつくことになった時、冬木じゃなくて三沢光晴を指名していたら人生変わっていましたよ(笑)。類は友を呼ぶというか、スポットライト浴びてないでスネているヤツに「頑張れば光が当たるんだよ」っていう気持ちがあったんです。
── 確かに、あの時代はリング上もそうでしたけど、私生活も絶好調でしたよね(笑)。
天龍 青春でしたね。両国中学で同級生だった三遊亭圓楽師匠、圓楽師匠の取り巻きの人たちとの親交が生まれて、それが俺を貪欲にさせてくれましたよ。圓楽師匠に銀座で身銭切って飲めるようになるには年収がどれくらいあればいいのか聞いて「よし、そこまで頑張ってやろう!」って目標みたいなのができました。
後々、圓楽師匠と圓楽師匠のスポンサー、俺の3人で銀座に行って1軒ずつ受け持てるようになった時に願いがかなったという思いがありましたよ。その時に全日本プロレスの屋台骨を支えるだろう三沢を「頑張ればこうなれるんだよ!」って連れ回したんです。発売されたばかりのアサヒスーパードライの試合後のうまさも忘れられない思い出ですね。リングの中で何があっても悔いはないって覚悟でやっていましたから、その裏返しで試合後にはバカみたいに酒飲んで暴れて、それで俗世に戻れるという感じでした。
── ガンガン闘って、ガンガン飲む毎日でした。
天龍 横綱の輪島大士さんが来たことで一般の人たちが全日本プロレスに興味を示してくれましたけど、その時に同じ相撲出身の石川敬士と「俺たちがガードしてあげなきゃ」って言っていたんです。それを知った輪島さんが高級メロンを届けてくれて、幼稚園生だったウチの娘(天龍プロジェクトの嶋田紋奈代表)は輪島さんのことを「メロンのオジサン」って呼んでいましたよ(笑)。
その後、リングで敵対する関係になった時には、相撲の横綱の強さを際立たそうと思ってガンガンやったんだけど、俺の半端ない攻撃のほうが注目されてしまいましたね。
鶴田選手に真っ向からぶつかっていったのは、彼はみんなが思っているようなイージーな格闘家じゃないということを知らしめたかったんですよ。鶴田選手はガンガン来る天龍を「マジでぶっ潰してやろう!」って思ったでしょうね。ファンにはおもしろかったと思いますよ、俺は生きざまから何から鶴田選手とは全部反対の方向に行きましたから。だから今、ちょっと失敗したかなと(苦笑)。
彼はちゃんと人生設計を持っていたし、よくレフェリーを通じて「そんなに飲んでばかりいると肝臓を壊すよ」って言ってきたから「やかましい、この野郎!」っていうメッセージを返していました(笑)。
◆聞き手・小佐野景浩