●ゲスト:天龍源一郎(てんりゅう・げんいちろう) 1950年、福井県生まれ。中学2年の時に二所ノ関部屋に入門、「天龍」の四股名で前頭筆頭まで昇進する。76年、全日本プロレス入団。ジャンボ鶴田との「鶴龍コンビ」、阿修羅・原との「龍原砲」、「天龍同盟」など、さまざまなムーブメントを巻き起こした。90年、全日本を脱退し、「SWS」に移籍。SWS崩壊後の92年、「WAR」設立。94年1月の東京ドーム大会でアントニオ猪木に勝利し、馬場と猪木の両者からピンフォール勝ちした唯一の日本人レスラーとなる。98年からフリーとなり、さまざまな団体へ参戦。2015年11月、両国国技館にてプロレスラーを引退。引退後はバラエティ番組への出演、俳優業など、タレントとして多岐にわたる活動を行っている。その半生をつづった「完本 天龍源一郎 LIVE FOR TODAY-いまを生きる-」が竹書房より発売中。
全日本プロレス時代はジャンボ鶴田との「鶴龍コンビ」などで人気が爆発、昭和~平成のリングを盛り上げたプロレスラー・天龍源一郎。現在はタレントとしてバラエティにも進出したが、今なお“ミスタープロレス”の魂は消えず。天才テリーに、その熱い想いを激白した!
テリー プロレスラーを引退して約1年ですが、今やテレビに引っ張りだこ。大ブレイクですね。
天龍 いやいや、おこぼれ頂戴してます。バラエティに出ると皆さんにイジられるでしょう、うまく切り返せない自分が歯がゆい時もありますよね。
テリー 今までだったら「何言ってやがるんだ、この野郎!」って殴っちゃえばよかったですもんね。
天龍 そうなんです。言葉で返さなきゃいけないから大変ですよ。ただ、人と会ったり、いろんな経験をさせてもらうと気分がリフレッシュしますね。今までは、だいたい行動パターンが決まっていましたから。
テリー 長いプロレスラー生活でしたから。
天龍 特に俺は相撲部屋に13歳で入門してますから、格闘界しか知らずに育っているんですよ。そういう意味でかなり偏った生活でしたけど、最近はだいぶまともになりました(笑)。
テリー いちばん変わったのは、どこですか?
天龍 前は「俺が体で稼いで家族を食べさせる」という偉そうな考え方でしたけど、今は「家族で足して10になればいい」という感じになりましたね。俺ができないことは、娘なり女房なりがやって最終的に10になればいいや、と。
テリー 重い肩の荷が下りたんですね。ご家族は、今の人気を喜んでいるんじゃないですか?
天龍 女房には、「相撲やプロレスで一生懸命やってきて今の人気があるんだから、奢(おご)っちゃダメよ」ってクギを刺されてますね。
テリー アラララ、それは手厳しい(笑)。
天龍 娘は事務所の代表で、俺のマネージャーでもありますから、女房よりよっぽど厳しい。よくバラエティの収録後に「どうしてあの時こう言わなかったの!」って怒られてます。
テリー アハハハ、なるほど。それもあって、うまく切り返せないと悔しいわけだ。さすがの天龍源一郎も娘さんには形なしですね。
天龍 彼女のほうが、世の中のことを知っていますから。いろいろ教わってます。
テリー 天龍さん自身は、バラエティを経験してみてどうですか?
天龍 おかげさまで、楽しんでやっていますね。もともと楽しいことは好きでしたから、そういう素養みたいなものは、自分の中にあったと思うんですよ。でも、今までは自分で規制していたんです。例えば、「全日本プロレスのトップがコンビニなんかに行ったらダメだろう」とか。
テリー あ~、プロレスラーという肩書の大きさを大事にされていた?
天龍 ええ、だから、それが取っ払われた分だけ、気が楽ですね。今はもう平気でファミレスに行ったりしてます(笑)。
テリー ということは、お嬢さんが小さい頃、手をつないで遊園地やディズニーランドに行ったことは?
天龍 娘を連れて、そういうところへ行った記憶はないですね。家族とゆっくりした時間を過ごしているところを見せるのは、プロレスラーがやることではないと思っていましたから。
テリー ずいぶん自分を厳しく律していたんですね。