平田容疑者の逮捕により、残るオウム真理教元幹部の特別手配犯は2人。特に「走る爆弾娘」こと教団「厚生省」メンバー・菊地直子容疑者(40)の潜伏先にはいまだ諸説が飛び交っている。
菊地容疑者は、95年3月の地下鉄サリン事件で、サリン製造プロジェクトに関与したとして殺人容疑などで指名手配されている。
彼女の足取りが最後に確認されたのは96年11月。のちに逮捕された北村浩一受刑者らオウム信者数人が潜伏していた埼玉県所沢市内のマンションで、菊地のものと見られる衣類などが発見されている。
約21平方メートルのワンルームマンションの隅に、段ボールで仕切られた空間があり、そこが菊地の「部屋」だった。ホーリーネーム「エーネッヤカ・ダーヴァナ・パンニャッター」が書かれた寝袋の正面に、教祖・麻原彰晃こと松本智津夫死刑囚の写真が掲げられていた。
しかし、それ以降の消息はもちろん、所沢以前の足取りも、まったく解明されていない。今回の平田容疑者逮捕によって真相解明が期待されるが、今のところ平田容疑者は、菊地容疑者ともう1人の特別手配犯・高橋克也容疑者(53)の行方については「知らない」としか話していない。
そんな中、これまでの見立てを真っ向から覆す情報も存在する。菊地の潜伏先に関して長期取材を続けてきたジャーナリスト・吾妻博勝氏がこう話す。
「特別手配から3カ月後の95年10月中旬、菊地と思しき女性が国外逃亡している。別人名義のパスポートを入手し、成田空港からタイの首都バンコクに入っています」
その女性は、日本人が多いバンコクには長居せず、まもなく800キロほど北方のチェンライという街に移動。別ルートでタイ入りしていた平田、高橋の両容疑者と合流したという情報もあるという。
しかし、この街も日本人観光客の出入りがあるため、さらに車で30分ほどの農村に移動して潜伏した。
「この隠れ家をあてがったのは、不法滞在で日本から強制送還された地元出身のタイ人女性で、その彼女と武装麻薬組織のボスの手引きで96年、菊地と見られる女性はミャンマーに入った。タイ北部の捜査当局の情報では、03年にミャンマー北東部の町モンギョンのホテルで、日本人男女5人のグループが目撃されています。そのリーダー格が菊地と見られ、整形手術を施していたという情報もありました」
吾妻氏は、現地の町や村に足を運び、住民たちに菊地容疑者ら3人の手配写真を見せて確認作業を行った。その結果、3人が一緒にいるところを見たと証言する人が続々と出てきたという。この女性が本当に菊地だったなら、96年11月頃に一時帰国して所沢に潜伏 していたことになる。
そんな菊地容疑者の行方を「知らない」と話している平田容疑者だが、両者の関係に一つだけ確かなことがある。菊地容疑者が平田容疑者に思いを寄せていたということだ。
前出の所沢のマンションには菊地容疑者がまとめたノートが残されていた。「文藝春秋」2010年10月号に掲載されたそのノートには、平田容疑者に対する愛情が正直すぎるほどに告白されている。一見、難解な教団用語がちりばめられた内容だが、要は「逃げ延びることで、平田への愛欲を満たしたい」というから、かなりのものだ。
一方の平田容疑者も逃亡生活を共にした斎藤容疑者よりも菊地容疑者に好意を抱いていたという説もある。それに関連してオウム事件に詳しいさるジャーナリストは、こう証言する。
「複数の元信者から菊地と平田が相思相愛だったと聞いたことがある。そしてそのことが、今回の平田の出頭の真の理由ではないかという捜査関係者もいるんです。実は、ここ数年、宮城県沿岸部の飲食店で菊地が働いていたという情報があった。そしてそれを裏付けるように、東日本大震災で菊地が死亡したことを教団関係者から聞かされた平田が悲嘆のあまり逃亡する意志を失い自首した、という関係者の情報があるんです」
確かに先の震災ではいまだ身元不明の遺体も多く、菊地容疑者の行方を追う捜査関係者は、そうした身元不明遺体の調査にも乗り出しているという。
国内外での潜伏説、そして衝撃の死亡説……。いまだ錯綜を極める菊地容疑者を巡る情報だが、オウム事件の犠牲者や、事件によって、人生を暗転させられた人たちのためにも一刻も早い捜査の進展が望まれる。