バリバリのメジャーリーガーとして、古巣に戻ってきた。いまだ広島は空前の黒田フィーバーに沸いている。惜しむらくは、チームがその波に乗り切れていないことだろう。しかし、黒田がこれまで歩んできた野球道こそ、逆境の連続だった。不惑を迎えてもなお変わらない“漢”の礎となった、まさに不屈の幼少期、学生時代をたどりたい。
75年2月10日に産声を上げた黒田博樹(40)は、大阪の下町・住之江区で幼少期を過ごした。
「黒田さんのところとは、マンションの部屋が向かい合わせだったので交流がありました。お風呂上がりの博樹くんがパンツ一丁で突然、私たちの家に上がり込んできて、部屋中を駆け回ったり、雨の日には、廊下で野球のスライディングのまね事をしていたりね。とても活発な子供でしたよ」(黒田の幼少期を知る女性)
父・一博さんは、南海ホークスの外野手として活躍した元プロ野球選手。現役引退後は住之江区で運動具店「クロダスポーツ」を営んでいた。また、母・靖子さんは公立高校の体育教師で、64年の東京オリンピックで砲丸投げ代表候補になっている。
そんなスポーツ一家に育った黒田は、大阪市立加賀屋東小学校に入学。小学2年の時、地元の少年野球チーム「バイキングジュニア」に入部し、本格的に野球に取り組むようになった。
同チームで2学年上だった太田平八郎忠相さんが小学生時代の黒田の印象について振り返る。
「素質的には抜群のはずなんで、どんなすごいやつが来るんやろうって、噂してたんですけど、ピッチャーをやらせてもストライクは入らないし、打ってもボテボテのゴロばかり。鬼ごっこをしても足は速くないし、溝にハマってコケたり、めっちゃ鈍臭くて全然大したことがなかった(笑)」
相手の裏をかく巧妙なピッチングでメジャーの並み居る強打者たちを手玉に取ってきた黒田。だが、少年時代にその面影は微塵も感じさせなかったという。
「のちのプロ野球選手だから、運動神経は抜群で何をやらせても器用にこなしそうだけど、本当に不器用なやつだった。運動会で活躍した記憶もない。冬場には、みんなでサッカーをすることもあったけど、ボールを蹴ろうとして豪快に空振りしたりしてた。でも、真っ黒い顔で、いつも一生懸命だから、みんなから『クロ、クロ』って、かわいがられていました」(太田さん)
12年7月5日付の「ニューヨーク・タイムズ」のインタビューで、黒田はこう答えている。
「小学校で野球を始め、ほとんど軍隊のようだった。試合でミスをしたらケツバットは当たり前」
1学年上のチームメイトだった中分好幸さんは、当時をこのように述懐する。
「クロが入部して間もない頃に、野球経験がほとんどない高校生がコーチとして入ってきたんです。いつも竹刀を持っていて、ミスをするたびにケツバット100回とか、腹筋1000回とか、シゴかれまくった。練習を休みがちになる部員もいたけど、クロは歯を食いしばって耐えていましたよ」
当時、黒田はチームメイトにこう打ち明けたこともあったという。
「あんな、もうケツが痛うて、痛うて。学校で椅子に座ることがつらいねん。あおむけでよう寝られんし」
それでもひたすら耐え続けた野球道は、まだ始まったばかりだった。