07年のオフ、広島にメジャー挑戦する意向を伝えた直後のこと。記者にファンへの思いを聞かれた黒田が、
「カープに本当に育ててもらったと思っていますし、たくさんのファンの人たちに応援してもらいましたし‥‥。感謝の気持ちでいっぱいです」
と、言葉を詰まらせながらテレビカメラの前で男泣きしたことがあった。
少年野球の先輩には、そんな光景に見覚えがある。小学校時代にも黒田がチームメイトの前で涙を流した場面を太田さんが回想する。
「僕がピッチャーで投げていて、最終回まで完全試合だったんです。監督だったクロのお父さんは、いつもは冷静沈着なのに、珍しく興奮気味な様子で、『狙えよ』『しっかり守れ』とハッパをかけてきた。そして、何とかツーアウトまでこぎつけたんです」
「あと1人」という状況に、野手はみんなガチガチに緊張していたという。太田さんは、渾身の1球で“最後の打者”を三遊間のゴロに打ち取った。だが、サードが震えて動けず、ショートが捕球して深い位置から一塁に送球。セーフかアウトかはギリギリのタイミングだった。
「クロがファーストを守っていたのですが、ベースから足がわずかに離れて内野安打になった。結局、次の打者を打ち取り、チームは完封勝利したんだけど、試合終了後にクロのお父さんから、『すまなかったな』と謝られるなど、気まずい雰囲気になったんです」
すると、ベンチに戻った黒田は半ベソをかきながら、
「僕のミスで完全試合をパーにして、スミマセンでした」
と、太田さんに謝罪したというのだ。
「『クロのせいやないよ。気にせんでええよ』と声をかけたんだけど、痛恨ミスに肩を落として頭を上げようとしないから、逆にこっちが申し訳ない気持ちになったのを覚えている。小さい頃から、生真面目で熱いやつだったよ」(太田さん)
レギュラーとして活躍するようになった黒田だったが、小学5年生の時に、日本初の硬式少年野球チーム「オール住之江」に移ることになる。「バイキングジュニア」創設者の太田忠一さんが移籍の経緯を語る。
「南海ホークスの鶴岡一人さんの要請を受けて新設された『オール住之江』の監督に、クロのお父さんが就任することになって、それでこっちを退部することになったんです」
この時も黒田は、チームメイトの前で、
「みんなと一緒に野球ができなくなるのは寂しい。ありがとうございました」
と深々と頭を下げたという。
後年、広島からメジャーに移籍する際、ファンに向けた真摯な姿勢はまさに黒田の生き様だったようだ。
父親が監督を務めるチームに入団した黒田は中学校を卒業するまで投手を務めたが、ここでも目覚ましい活躍をすることはなかった。そして、その後はさらなる挫折の日々を味わうことになる──。