3月28日に広島のRCCテレビが放送した特別番組「黒田博樹復帰の真実」の撮影で、黒田は13年のオフに大阪府太子町にある上宮の練習グラウンドを訪れた。
グラウンドに立ち、
「嫌やったなあ。ここで投げるの。ボールを探しに行く振りをして、外野フェンスの裏が土手になっていて、そこの川の水を手ですくって飲んでいました」
と苦笑いを浮かべたものだった。
ふがいない投球と罰走を繰り返す、野球漬けの日々──。同学年のチームメイトだった横内誠さんが、黒田の試練時代を振り返る。
「僕は外野を守っていたんで、レフトポールからライトポールを延々と走っているクロちゃんの姿がいちばん印象に残っている。帰りの電車が一緒になることもあったけど、その時『肩や肘、腰が痛くて、思うように投げられへん』って。でも、『やめたい』とか、そんな弱音は一度も聞いたことがなかった」
高校球児の憧れである甲子園出場を目指して、過酷な練習に耐える黒田。そんな息子に対して、母の靖子さんは「苦しまずして栄光なし」という言葉を与えたという。だが、黒田は高校3年間、ずっと控え投手であり、最後までエースナンバーが与えられることはなかった。
黒田の3年時には監督を務めていた田中氏が、高校時点での教え子の実力について語る。
「学校の授業も練習も3年間、皆勤賞だったと記憶している。寡黙で真面目に取り組んでいたけど、プロに行けるレベルではなかった。当時は、ピッチャーにも野手陣にも、いい選手が多かったからプロのスカウトが来ることもあったけど、控え投手でも本当によければ、『これはええな』ってなるでしょう。でも、誰一人、黒田に注目する人はいなかった。眼中になかったと思います」
結局、高校最後の夏となった大阪大会で、上宮高校は準々決勝敗退。黒田には大会を通じて1イニングも登板機会がなかった。こうしてあまりに過酷だった高校野球生活は終わりを告げるのだった。