初めて2桁勝利を達成したのはプロ入り5年目、01年のことだった。
「来年、期待しているからな」
プロ入り後、伸び悩む黒田を覚醒させる転機は前年の秋季キャンプで、01年からチームの指揮を執った山本浩二監督からのそんなひと言だったという。
西山氏も当時の黒田の変化を認める。
「入団当初から、こっちが気を抜くと捕れないっていうほどの速さはあったよ。でも、150キロのまっすぐを待っている打者に、スライダーやフォークを痛打されることもあった。緩急を使えていなかったからだけど、ここから黒田は違ったね。カーブを覚え、さらにシュートの習得にも取り組んだり、新しい球種をマスターしていった。あれだけのストレートがあったら、それに過信するピッチャーもいるけど、黒田は黙々と練習していたからね」
05年、チームは最下位に終わったが、黒田はキャリアハイの15勝をあげ、最多勝、さらにゴールデングラブ賞、ベストナインにも選出された。06年も13勝をあげ、さらに1.85という驚異的な防御率を記録する。
今岡氏が当時の印象を語る。
「プロに入ってワンランク、ツーランク上のレベルに到達したピッチャーだと思う。黒田の球はズドンとくる剛球で、外国人のような球質だった。本人は真ん中を目がけて投げているのかもしれないけど、打者からするとアウトコースにちょっとスライドしたり、インコースにシュートしたり。日本人は回転がきれいなキレのある球を投げるんだけど、黒田はその反対。非常にやっかいでした」
ピンチになればなるほど一番の武器である150キロを超えるまっすぐで勝負し、気迫に満ちた投球でセ・リーグの強打者たちをねじ伏せてきた。
そして日本球界を代表するエースへと成長した黒田は、07年にFA権を行使してメジャー移籍を表明。その後、ドジャース、ヤンキースで7年間もの間、主力として投げ続け、5年連続で2桁勝利をあげた。そして、今年、広島への復帰を決断したのだ。
黒田はインタビューの中で、メジャーで投げ続けられた理由を聞かれて、次のように答えている。
「ピッチングに対する発想を日本の時と切り替えられたこと。メジャーに来た時から、力でねじ伏せる投球スタイルを貫くことは難しいと思っていました」
薮田氏が語る。
「黒田の強みは柔軟性です。日本にいる時はまっすぐでどんどん押していくパワーピッチャーのイメージだったが、メジャーに行ってからはツーシームを覚えるなど、投球スタイルが大きく変わりましたよね。プレートの踏み方も日本時代は三塁側のいちばん端を踏んでいたけど、メジャーの途中からは真反対になった」
黒田は常に進化を遂げてきた。40歳になる今日まで、そして今もなお、なぜ現状に満足することなく不屈の精神で変化し続けることができるのか。
西山氏は言う。
「黒田はアマチュア時代にほとんどスポットライトを浴びることがなかった。類いまれな身体能力やセンスがあったわけでもない。そうした劣等感が原動力になったと思うよ」
そう、黒田はプロ入り前からいくつもの壁を乗り越えてきた。
では、かつて味わい続けた挫折と苦悩の日々とはどんなものだったのか──。