間もなくデビュー50周年を迎える山本リンダ(64)は、これまで3次にわたる「リンダブーム」を巻き起こした。さらに、それぞれのブームで紅白に出場した奇跡の持ち主だ。
中途半端じゃダメなんです。それまでのイメージを全部、ぶち壊すくらいの勢いで、一切の笑顔も見せないで歌おう──。
それが「どうにもとまらない」(72年)に賭けた思いでした。この曲がダメなら、歌手としてはやっていけないだろうと覚悟していました。
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66年に「こまっちゃうナ」でデビューしたリンダは、同曲の大ヒットで翌67年の紅白に16歳で初出場。舌っ足らずのアイドル的な歌手として最初のブームを起こした。
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初めて紅白に出た時は、他の人のリハーサルを客席で見ていて、この舞台に喜びの涙も悲しみの涙もしみついているんだなと思ったんです。そのくらい芸能界は厳しい世界で、私も翌年に早くも落選して、そのことを実感しました‥‥。
ただ、初出場はとても楽しかった記憶があります。舞台袖ではドキドキしながら待っていたけど、イントロが鳴ったらそこに楽しさが加わりましたね。
2度目の出場までは5年のブランクがありましたが、あの「どうにもとまらない」はレコード会社をキャニオンに移籍しての第2弾。しかも同系列のフジテレビがプロジェクトチームを組んで売り出すという珍しい形でした。
作詞は阿久悠先生、作曲は都倉俊一先生で、阿久先生は「恋のカーニバル」というタイトルをつけていたんです。ところが、サビのフレーズにこだわったプロデューサーが「どうにもとまらない」に変更。阿久先生は「ああ、そういう線か!」と納得していらっしゃいました。
この曲では「こまっちゃうナ」のイメージを全て変えるため、歌唱法もワイルドにして、衣装も日本で初めて「ヘソ出し」に取り組みました。
私も低迷期が長かったから、レコードを売るというのがいかに大変かを知っています。この曲のためにレコード会社の人たちが寝ないでキャンペーンしてくれて、そして大ヒットしたのはとてもうれしかった。
ただ、ヘソ出しの衣装が引っ掛かったのはNHKの歌番組。いつもはパンタロンにヘソの上で結んだ赤いブラウスですが、さすがにそれでは出られない。1度、ヘソ上まであるパンタロンを着ましたが、それだと曲の感じが出ない。
そこで作戦を立てました。ブラウスをいつもより下で結んで、リハーサルでは踊りも抑えめにして、本番では「エイヤッ!」とほどけるような激しい踊りでヘソ出し成功。以来、紅白も含めて「解禁」にこぎつけました(笑)。
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世界千夜一夜シリーズと名付けられて「狙いうち」(73年)などヒットを連発。紅白も3年連続で出場していたが、80年代以降、再び停滞期に入った。
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それまでは「まだ歌っているの?」と言われることもありましたが、90年代に入って子供たちからサインを頼まれたんです。どうして、この子たちがと思ったら、アニメの「ちびまる子ちゃん」で使われていたんですね。
さらに、米米CLUBがステージで「リンダメドレー」をやってくれていたり、六本木や新宿の踊るほうのクラブで「リンダタイム」が盛り上がっていたり。
それが“第3次ブーム”と呼ばれ、91年の紅白に17年ぶりに復帰することができたんです。その年はレコード大賞でも特別賞をいただきましたし、紅白では「どうにもとまらない~狙いうち」のメドレーだったので、ステージ上での早着替えをやりました。
クラブで踊る若い人たちがブームを作ってくれたと思うと、ずっと歌っていてよかったなと感じましたね。