仕事の鬼だった梶原氏だが、仕事場から離れると、ストレスを発散するようにクラブやキャバレーを歩き回り、女性関係も派手だった。
「家族でハワイ旅行に出かけたことがありました。子供たちは母と飛行機に乗って現地に行き、父は別の便で訪れました。飲食店で合流したのですが、父の隣には見たことのない女性が‥‥。戸惑いながら御飯を食べていると、私たちに向かって、『もしかしたらお前らの母親になるかもしれない』と平然とした顔で言うのです。母の前でどんな反応をすればいいのか(笑)」
梶原氏の女性遊びが原因の一つであっても、離婚後に篤子氏が家庭で「父」の存在を“無”にすることはなかったという。家の中には梶原作品があり、読んでいても叱ることはなかった。子供たちには高森の姓を名乗らせ、成人した時に自分たちでどちらかの名字を選択させるつもりだった。
「一緒に暮らしたのは父にとって闘病の期間でしたが、子供たちの前で父が弱音を吐くことは一度もありませんでした。父が亡くなる直前、自宅から病院に行く時に家族全員を集めて、『パパは大丈夫だからな』と言って玄関から出て行きました。私たちを心配させないように、いつものように車で出かけ、目白通りまで出てから、救急車を呼んだそうです。父の死去後、母は『子供たちも父親の必死の状況はわかっていた』と話していましたが、実際は、全然気づいていなかった。いつもの入院だとばかり思っていたので。それが父と最期に交わした言葉だったのです」
梶原氏の遺品を整理していると、あらためて驚かされることがあったという。
「原稿用紙を見ると、ほとんど消しゴムを使った跡がないんです。一度書き始めたら作業を止めたくないので、鉛筆の芯も通常より細長く削って数本、用意しています。父の遺作となった『男の星座』の原稿を読んでいると、最初の頃は筆圧が強いのですが、体調を崩しだした時に書かれた原稿は、どんどん字が乱れていました。それだけつらい状況だったのでしょう。亡くなる数日前にも、病院のベッドの上で原稿を書いていたそうですが、その原稿が見つかっていないんです。私たちとしては手元に置いておきたいのですが‥‥」
先頃、出版関係者に尋ねてみたが、やはり見つけられなかったという。