「スポ根」漫画という新ジャンルを開拓してきた中で親密な関係を結んでいたのが、空手家で極真会館創始者の故・大山倍達氏だった。
梶原氏が20歳の時、米国から凱旋帰国した大山氏を取材して以来、交流は続き、71年には「週刊少年マガジン」(講談社)で、大山氏をモデルにした「空手バカ一代」の連載がスタート。76年には、梶原氏側と大山氏側が出資した映画「地上最強のカラテ」も大ヒットしたが、やがて配給収入の分配を巡って2人の関係がギクシャクし始める。
そして、80年に蔵前国技館で開催された「ウィリー・ウィリアムスvsアントニオ猪木」との異種格闘技イベントで、両者の間に「決定的な亀裂」が生まれる。試合前から「梶原襲撃指令」の怪情報が飛び交い、梶原氏側と大山氏側の間で、緊迫した状況になったのだ。以来、長年の蜜月関係は崩れたと言われていた。
また82年には、梶原氏がアントニオ猪木氏の「監禁事件」を起こす。原因となったのは、「タイガーマスク」だった。事件前、梶原氏側は、「キャラクター使用料や権利料の支払いが滞っている」と主張し、猪木側と緊張した関係となる。その最中、梶原氏は自身が会長を務めていた世界空手道連盟・士道館の関係者と一緒に大阪のリーガロイヤルホテルに宿泊。同じ日に新日本プロレスの興行があり、同ホテルに宿泊していた猪木と新日本プロレスの営業本部長を呼び出したのだった。その席で梶原氏側に同席していた暴力団関係者が、
「拳銃を持っている」
ことをほのめかし、脅迫・監禁したとされているが──のちに梶原氏は恐喝を否定している。トラブルがあったものの、梶原氏が猪木氏の悪口を言うことは一度もなかったという。
「父は“事件”が起きてからもアントニオ猪木が大好きなんです。テレビで猪木の試合を見ていて、『やっぱりこいつはスターだよな』とほめていました」
また、決裂したかに見えた大山氏との関係も梶原氏の病没と前後して、復活していたという。長男・高森城氏がこう明かす。
「父が病気で倒れた時も、手紙を送ってくれました。手紙には大山館長の名前はなかったのですが、『これは大山館長からだよ。俺にはわかる』と父はうれしそうに母に話していたそうです。お互い組織のトップだったので、いろいろなしがらみがあり、表立って関係を修復するのが難しかったのでしょう。父が亡くなったあと、母が電話をしたりして、大山館長と高森家の関係を築いてくれました。私の結婚式にも大山館長が出席して、スピーチをしてくれたんです。当時、大山館長は入院していて、病院の先生から『これで行ってしまうならば、保証はできない』と止められたのですが、『それでも、ここで死んだら寿命だよ』と言って、駆けつけてくれました」
没後、大山氏が実行に移した粋な計らいには、天国の梶原氏も舌を巻いたのではないだろうか。