受け止めてくれた藤波さん
藤波さんに対する感情はジェラシーの塊だった。第一印象は「スリムで小さいな」でした。でも、格闘技のバックボーンはないけど、身体能力はズバぬけていた。僕はアマレスやってましたから、選手の体を見ただけで、どれくらい動けるのかがわかるんですよ。とにかく、脚力がすごかった。スピードが周りより、一歩も二歩も速かったですね。あとにも先にも、僕が驚かされたのは、藤波さんとタイガーマスク(佐山聡)の2人だけですよ。
僕も身体能力には自信を持っていたから、デビューして少しは動けるようになると、「やれないことは何もない」と勝手に思っていたんだけど‥‥。
長州が新日本プロレスに入門して3年後の78年、藤波はプロレスの殿堂、ニューヨークのマジソンスクエアガーデンでカルロス・ホセ・エストラーダを破り、WWWFジュニア王座を獲得する。
このベルトの奪取で、今までプロレスに見向きもしなかった女性や子供たちをプロレス会場に呼び込む「ドラゴンブーム」が巻き起こった。
これは僕を焦らす一大事件でしたよ。僕は会社の期待に応えられないパッとしないレスラーでしたからね。3度にわたる海外遠征のチャンスも生かせなかった。藤波さんが一大旋風を巻き起こしていた時代にアメリカ遠征をしていた際には、まだ20代で若かったから、このまま帰国しないでアメリカで気楽にやってるほうがいいんじゃないかと思うことさえありましたね。向こうのプロレスのスタイルもわかってきたところだったし。試合後のビールもうまい。何より気楽なんですよ。向こうでは藤波さんと比較されることもなかったからね。
先のいわゆる「かませ犬発言」以前、長州は藤波と対戦して6戦全敗だった。
自分自身はその結果に納得しているつもりだったけど、やっぱり納得しきれない部分もありました。だから、藤波さんとの戦いがここまで尾を引いているんだと思いますよ。プロだから魅せるという部分では納得しても、対戦成績をまったく気にしない、全敗でいいというのは違うんじゃないかと。まあ、負け続けたから、かみつきやすかったってこともあったのは事実だけどね。
人生は選択の連続だ。あの時、先輩である藤波に「反逆しない」という選択肢もあっただろう。
今、言えるのは、人生っていうのは長いか短いかわかんないけど、波乱も何もなく、ただ生きているような人生よりも、1年間でもいいから、びっしり何か充実感あった人生を選んだほうがいいんじゃないかと思うね。だから、一大決心であの日の後楽園ホールに臨んだんだと思う。
個性も背負ってるものも違う、藤波さんだから思いっ切りぶつかっていけたんですよ。たぶん、最初っからリスペクトしていた。
もし、かみつく相手が藤波さんじゃなくて、他の先輩レスラーだったら、今の僕はないでしょう。とっくの昔に引退しているはず。藤波さんが現役を続けていたかどうかもわかんない。これが反対の立場だったら、僕はすぐに白旗あげていたでしょうが、藤波さんだから受け止めてくれたんです。