負けた時は家にも帰らない
中華のテクニックを短時間で余すところなく披露するばかりでなく、常に新作にも挑戦し続けた陳。この戦いでは、「21世紀エビチリグラタン」こそが、新しいスタイルのエビチリであったという。そんな料理に対する飽くなき探究心は、過去の苦い敗戦体験によっても育まれていたようだ。
俺は挑戦者に最初に負けた鉄人だし、女性に連敗し、「女性に弱い鉄人」とも呼ばれたからな。負けた時なんて、家に帰らなかったよ。どこに行ったと思う? 多摩川の土手。近くにショートコースのゴルフ場があって、ゴルフ好きの俺は早朝によく通っていた場所なんだけど、そこで土手から川に向かって石を投げてた(笑)。
ちょうど腹が減ってきた頃に、カミサンから電話がかかってきて帰ったもんだよ。やっぱり、負けるのは悔しいよな。
でもさ、悔しいと思うだけじゃ、いつまでも負けるわな。勝った、負けたって言っても、料理はタイムを競うスポーツじゃないだろう。だから審査員を満足させようと思考を転換し、彼らの嗜好にも心配りをするようになったね。男性と女性でプレートを変え、量を変え、盛りつけにしても女性には必ず包丁目を入れたものだった。
食材にしても、今でこそ女性客の大好きなチーズを使ったメニューって、どこでも定番化しているけど、俺はあの頃から研究を始めていたね。ただ、あの「21世紀エビチリグラタン」の時は、チーズのブレンド法がまだ勉強不足だった。確かパルメザンチーズをメインにしたんだけど、香りのいいゴルゴンゾーラなんて加えていたら味の幅が広がったんじゃないかな。
陳には、心がけていることがもう一つある。それは単純明快。自分がおいしいと思うものを作るという基本的スタンスだった。
俺、グラタンが好きなんだよね。小さい時に、銀座の「不二家」で初めて食べたマカロニグラタンが忘れられなかった。その後、家でNHKの「今日の料理」を見ていたら、グラタンだったんだよ。ワオッと思ったね。牛乳と小麦粉とバターでソース作ってさ‥‥、初めての料理だったね。今でも作るよ。
あの戦いでも、オーブンでトマトとオマールを焼いたらうまいだろうなと思ったんだよね。
チーズ風味と豆板醤の辛みが絶妙なハーモニーを奏で、女性審査員をうならせたものだった。結果、浅野ゆう子と細木数子の採点シートは、ともに陳が20点満点で、坂井が19点だった。
しかしながら、男性審査員3人が坂井に軍配を上げ、3対2で敗れたのである。
確か、坂井さんは焼き石を入れて仕上げた「海藻蒸し」を作っていたよね。彼の得意技。あとで試食した時、和も融合されてて、「やるじゃないか~」と思ったな。あの頃の俺は、技術とか発想とか、まだまだだったけど、今なら中華風にアレンジして対抗するね。四川風にするために山椒を入れたり、塩漬けのとうがらしをベースにしたり‥‥。
あの試合はお互い必死だった。ラストにふさわしかったよ。坂井さんの涙を見て、こっちも泣けてきた。お互いに健闘したし、そこで勝ったか、負けたかは自分の中でジャッジしたよ。審査員は、その人の嗜好だからね。勝敗? もちろん、俺が勝ってたよ(笑)。
ちなみに、フレンチの鉄人・坂井の戦績は87戦70勝16敗1分、最高勝率の80・4%を誇った。一方の敗れた陳は、94戦68勝23敗3分で勝率は72・3%ながら、14連勝という番組最長連勝記録を樹立しているのだ。
連勝は、勝敗よりも審査員をいかに満足させるかと、発想の転換を図ってからだったね。夜中の多摩川の土手行きもなくなった(笑)。