デビュー直後の森高は、息つく暇もないスケジュールに追われていた。87年5月、映画の公開に先駆け、CDデビューした森高は、秋には学園祭ツアーのスケジュールも組まれていた。そのツアーに先立つ初ライブにも風見しんごは、足を運んだという。
「『初めてライブを行うのでぜひ見にいらしてください』と誘われて行きました。僕の中では森高さんというと、女優さんのイメージのほうが大きかったのですが、歌手としてステージに立つと生き生きとしたまなざしで、女優をしている時とは全然違って見えましたね。
あとになって、デビュー当時も体調を崩されていたようなことを聞きました。ライブ当日も腰だったか背骨だったか、ものすごい激痛なのに『ファンの人が待っているから』とステージに立ったという話を聞きました。映画も過酷なロケでしたが、やっぱり芯の強いのは変わりなかったんでしょうね」
デビュー当初は、おおよそ本人も説明のつかないほど、多岐にわたる活動をこなしていった。
アイドルと歌手、女優、そしてアーティストが混在したノンジャンルの不思議なポジションにいた森高だが、ついには病気がきっかけとなり、コンサートツアーを中止する事態に陥ってしまう。
〈原因は体調不良による緊急入院、病名は「急性腸炎」原因はストレスによるものだった〉
こうした様子を波多江はこう見守っていた。
「デビューして1年目くらいは彼女が『熊本に帰りたい』とこぼしていると人づてに聞きました。もともとコンテストにも、友達と一緒に出たら、たまたま優勝してしまったようなものですから。彼女はああ見えてやりたくないことはガンとしてやらない頑固なタイプ。芸能界に二の足を踏んでいたんじゃないかな」
森高はこの時の経験を「ザ・ストレス」という歌にしている。ちなみに、過酷なデビュー映画で見た北海道の雪景色は「銀色の夢」という歌のモチーフとして、のちに作品として昇華させているのだ。転んでもタダでは起きない、負をも正へと変えてしまえるアーティスト根性こそ森高の真骨頂なのかもしれない。
これがきっかけとなり、森高は、これまでの「二足のワラジ」を1つにしぼっていった。
歌手・森高に風見が再会したのはその翌年の88年暮れのことになる。
「当時、TBSで『キラリ熱熱倶楽部』という音楽番組で司会をしていましたが、そのゲストとして彼女が来てくれたんです。映画の撮影以来久しぶりに会ったので、お互い映画のロケは本当に大変だったねと話したことを覚えてます。でも、僕の中では毛糸の帽子の高校生だった森高さんが、すっかりミニスカのシンガーに変わっていたのが不思議な感じでしたね」
アーティスト・森高千里がさらに進化するのはまだこの先のことである。