大蔵大臣の田中角栄は、文京区目白台の自邸で2人の官僚と対峙していた。
「君たちはこの俺が、大蔵省の細かな行政について何もわかっとらんと考えとるらしい。が、本当にそう思っとるんだったら、けしからん!」
田中は、大蔵官僚たちが、自分が尋常高等小学校卒ということで、心の底では馬鹿にしていることをわかっていた。
「おい!」と言って、秘書に応接間の壁の戸を開けさせると、そこにはずらりとファイルが並んでいた。
田中は、そのファイルを指差して2人に言った。
「見てみろ! 俺はこうやって、各省庁のすべての資料を初めから全部とってあるんだ。俺の頭の中には、それが全部入ってる。何なら、ここでしゃべってもいいんだぞ!」
さすがの大蔵官僚も、そこまで田中に凄まれると恐縮のしっぱなしであった。
最後は、「どうも、すみません」と頭を下げ、肩を落として帰っていった。それ以来、その大蔵官僚2人は田中に従わざるをえなくなった。
田中は、この1件で覚悟を決めた。
〈生意気なあの2人のような局長・次官クラスは、今後まともに俺の言うことに耳を傾けまい。それより、実際に省の仕事をしている課長、課長補佐の連中から仕事の段取りを教わろう〉
田中はそれからというもの、課長、課長補佐たちに近づいて、こう言った。
「俺は小学校しか出とらんから、大蔵省のことはよくわからん。君たちは、専門家だからよく知っとる。俺に教えてくれんか」
彼らの中でも特に優秀な、見どころのある人間は、直接自宅に呼んで話を聞いた。帰りには、お土産を持たせた。1万から2万円はするような高級佃煮セットであった。そんな高価なものは、若い連中には買えない。
家族持ちには、盆暮れに新潟の米コシヒカリを贈った。課長クラスに対しては、奥さんが病気である、子供が大学へ入った、という細かいことまでよく調べておいて、その都度、お見舞いやお祝いをした。見どころのある者の家の冠婚葬祭に、ほとんど出席した。
そういう細かい心尽くしを受けると、誰でも胸を開くものだ。田中は密かに、彼らから大蔵省内部の派閥関係まで細かく報告を受けるようになる。そうした人脈の流れをつかみ、将来の青写真を描いていった。
大蔵省では、課長までが実務をやるが、その上の局長、次官になると実務のことはわからない。田中は次官から説明を受けた時、逆に彼らにやり返した。
「おい、ここはおかしいじゃないか。これはこうじゃないか」
田中は、現場から前もって得た知識を元に、具体的に指摘した。次官も、それからは学歴のない田中に一目置くようになった。
他の大蔵大臣では、まちがってもこういう方法をとった者はいなかった。田中角栄は、省内で一番仕事をしているプランナーからの情報だけを頼りに、未知の大蔵省を切り開いていったのである。
作家:大下英治