しかし、田中の前に、大蔵省が立ちはだかった。大蔵官僚たちは猛反対した。
「税金を特定の目的に使う『特定財源』は、予算配分の権限を侵されるから、断固として許すわけにはいかない!」
石油・運輸業界も、これに強く反対した。
「増税は許さない」
田中は、抵抗が激しければ、よけいに燃えた。34歳の若い血がたぎった。
〈必ず通してみせる〉
52年4月、田中は手始めに、旧道路法の全面改正を図る“新道路法”を衆議院に提出した。この法案は6月2日、参議院本会議で可決・成立し、10日に公布となる。
次は、懸案のガソリン税法である。52年の第15回国会に提出されたこの法案は、年内に衆議院本会議を通過したが、参議院で審議中、衆議院解散となり、いったんは廃案となった。だが、これに情熱を傾ける田中は翌53年(昭和28年)6月、衆議院に再提出する。
依然として強い反対意見に、田中は衆議院建設大蔵連合会で、口髭をふるわせるようにして、ほとんど1人で熱弁をふるった。
「今まで表日本偏重の予算投下が長い間続けられ、裏日本とか、裏日本から表日本を横断する道路などが未改良になっております。これを一切整備しなければ、道路整備は終わらない」
田中の脳裏には、雪に閉じこめられた越後の人たちが交通事情の悪さに苦しむ姿が焼きついていた。だからこそ、ふるさとの格差是正に執念を燃やしていた。
反対派から攻撃があると、煙に巻いた。
「1人あたり道路費に出している額は、ちなみに、インドが39円でして」
小学校の先生・草間道之輔から言われたとおり、田中は眼に入る数字をすべて記憶していた。田中の記憶力は群を抜いていた。
しかし、大蔵省の追及はさらに続いた。
「ガソリン税法は、建設省の予算折衝のお助けをする法律にすぎないような気がしますが」
田中は、右の拳を振り上げ、顔面を紅潮させ、飛んでくる矢をかわした。
「建設省のためというような甘い考えは持っておりません! 日本の産業の根本的な再興をするためには道路整備以外ないのです!」
田中は逆に、大蔵省側の委員の攻撃にかかった。
「最終的には、国土計画が大蔵省の一方的な考えでやられることが多い!」
さらに局面が困難になると、大蔵省に自ら乗りこんでいき、若手実務家たち一人ひとりをつかまえて、説得にあたった。
「君たち、日本再建の基礎は道路だ。頼むぞ!」
各個撃破も功を奏し、大蔵省も内側から燃えあがっていった。
田中は当時、建設大臣であった佐藤栄作にも頼みこんだ。吉田学校の先輩である佐藤栄作は、大きな眼をぎらりと光らせ、
「わかった。君のために、ひと肌脱ごう」
と力を貸してくれた。
ついに、ガソリン税法は、53年7月、参議院本会議で可決され、同月23日公布となった。
大蔵省側のメンバーは、戦後初めて立法府に敗れて歯ぎしりした。
〈田中め‥‥〉
田中は、喜びに燃えていた。
〈誰も鈴をつけなかった大蔵省に、ついに鈴をつけたぞ〉
52年6月6日に公布となった有料道路法とあわせて、田中が作った道路三法が、その後の日本経済の発展に大きく貢献したことは言うまでもない。
後年、田中は、「自らの手で立法することにより、政治や政策の方向を示すことこそ政治家本来の機能である」と語っている。田中自身が行った議員立法は33件であるが、メインで動かずとも、何らかの形で関わった法案まで含めれば、その数はもっと多くなるだろう。
62年(昭和37年)7月18日、池田勇人内閣の改造が行われた。田中は、岸信介第1次改造内閣の郵政大臣を経て、史上最年少(44歳)の大蔵大臣となる。 初登庁の日、大蔵省3階の大講堂の壇に上がった。田中は大蔵省の課長以上が勢ぞろいして見上げる視線を浴びながら、闘志を剥き出していた。
〈こいつらに負けてなるものか。こいつらを今にねじ伏せてやる!〉
大蔵官僚たちが、自分を非難していることは、親しい新聞記者を通じて耳に入っていた。
「大蔵大臣になるのに、4つのふさわしい条件というものがある。『副総理級であること』『財政金融について経験知識を持つこと』『ある程度の年配であること』『各省、党の要求に対してノーと言えること』今度の田中は、その4つの条件のすべてを欠いているじゃないか。ひどい大臣がくるものだぜ」
初訓示の出来、不出来は、省幹部の大臣評価の目処になる。が、田中は居丈高になることなく実に開けっぴろげで、自然に訓示を始めた。
「私はごらんのとおりの無学です。幸い、みなさんは天下の秀才ばかりである。せいぜい私も勉強をさせてもらうが、みなさんは思い切って仕事をしてください。責任はすべて私が持ちます」
作家:大下英治