かつて、「常勝軍団」と呼ばれた西武ライオンズで、「球界一の鉄砲肩」と称されてチームの優勝に貢献してきた男が、人知れず転落の一途をたどっていた。舞台は闇カジノ──。昨年来、球界を震感させた野球賭博事件とも桁違いの莫大な金をつぎ込んでしまった。危険な遊戯の悪夢を振り払うかのように、羽生田氏は口を開いた。
「闇カジノに突っ込んだ総額は、8億円ぐらいになりますかね‥‥。勝つ時もあってちょこちょこ返済はしてたんですけど、今もまだ借金が3億5000万円残っています」
静かに語りだしたのは、元西武ライオンズの強肩外野手・羽生田忠克氏(52)である。茨城・土浦日大高から1982年にドラフト外で西武に入団。あの清原和博の3年先輩に当たる。
87年に一軍初出場を果たして以降、「常勝西武」の屋台骨を支えた元スター選手の身にいったい何が起きたというのか──。
「自分の引退理由はヒジの故障。現役最終年、97年の開幕前に3度目の手術をしたんですが、『今季中に復帰できなければ、球団として次の契約はしない』と通告されていました。自分では『もうこのヒジではダメだろうな』という感覚があったので、引退後のことを見越して携帯電話販売店の経営を並行して始めていたんです」
そして、同年10月にみずから引退を申し出ると、そのまま経営者としての新たな一歩を踏み出した。
「野球を辞めて雇われのサラリーマンになるよりは、自分で何か商売を始めたほうがいいんじゃないかと思って、いろんなことをやりました。他にも共同でキャバクラを2店舗経営したり、足ツボマッサージの店を出してみたり」
元来の真面目な性格が功を奏したのか、経営はいずれも順調だったという。
「キャバクラはけっこう儲かりましたね。商売をやってた時は選手時代と変わらない生活ができていた。収入面で困ったということはなかったです。03年頃にはプロ野球のオフシーズンにだけ開催されていた、マスターズリーグでまた野球を始めることもできました」
羽生田氏の現役時代の最高年俸は、95年の推定2450万円。それと遜色のない収入を上げていたとしたら、まずは第2の人生でも成功を収めていたと言えよう。
それでも、野球に対する里心だけは人一倍強かった。結果的には、そんな未練が転落への引き金になってしまったのだ。
「05年に『欽ちゃん球団』の茨城ゴールデンゴールズができたんです。外野手セレクションの手伝いを頼まれて引き受けたら、そのまま『コーチになってくれないか』って話になった。ちょうど『球界に戻りたい』という気持ちが強くなっていたので、いい機会だからと、やらせてもらうことになりました。それで‥‥自分がやっていた事業を全てやめちゃったんです」
引退から当時に至るまで、コーチ職などプロ球団からの要請はなく、解説の仕事もラジオで2~3回呼ばれた程度だった羽生田氏にとって、まさに球界復帰には千載一遇のチャンスに思えた。とはいえ、あくまでノンプロチームである。安定した収入を捨ててのチャレンジに、金銭的な不安を覚えることはなかったのだろうか。
「実は、最初の段階でチームの関係者に『年収は1億は堅いから』というふうに言われていたんです。自分にしてみれば『じゃあ頑張りますよ!』という感じで──」
萩本欽一が監督を務める、野球界だけでなく芸能界も巻き込んだ新球団だけに、巨額の資金が動くという“皮算用”があったのだ。それを信じたものの、現実はそんなに甘いものではなかった。
「蓋を開けてみたら、稼働1日でいくら、という感じで、月にだいたい40万~50万ぐらい。安すぎるということはないけど、収入的には減ってしまった。たまたまその年のマスターズリーグでけっこういい成績をあげたもんだから、2年目以降は選手として参加しろって話も出た。けど、そうすると1試合出場ごとのギャラ契約となるため、さらに給料は安くなってしまう」
「こんなはずではなかった」と羽生田氏が知人の会社経営者に愚痴をこぼすと、連れて行かれたのが、日本では非合法なはずのカジノ店だったのだ──。