現役時代から、競馬も麻雀もやらず遠征先の暇つぶしにパチンコを打つ程度、ましてや昨今話題の野球賭博などにはまったく無縁の“ギャンブル初心者”だった羽生田氏だが、実はカジノに行くこと自体は初めてではなかった。
「西武入団後、4年ほど野球留学でアメリカの1Aに行ったんですが、その遠征先で何回か行ったことがありました。ラスベガスと同じネバダ州にあるリノって町で、本当に小さい額で遊んだ程度です。賭け金1ドルが1000ドルになったりしたこともあったけど、特におもしろくてのめり込んだということはなかった」
しかし、“賭場”への耐性があるとないとでは大違いだったようだ。事実、羽生田氏には、日本で連れて行かれた闇カジノでの賭博行為が違法だという認識がなかったという。
「店は東京都下の羽村市って所にあってね。連れて行ってくれた社長もヤクザ関係でも何でもなかったし、悪いことだという感覚はありませんでした。『ちょっと遊びに行こうか』って感じ。バカラの台が1台置かれてるだけの狭い地下の店でした」
初日、羽生田氏は大勝ちする。3000円が18万円にも化けたのだ。
「今思えばバカみたいだけど、『これ、負ける人いるのかな?』って思ってしまいました。それからその社長に何回か連れて行ってもらって、慣れてきたら自分1人でも行くようになった。行くたびに勝って、18連勝したんですよ。だいたい2~3カ月で1000万円くらい儲かった。『給料が少ない』ってことで始めた博打なんだから、勝った金は当然、家に入れてましたよ。豪遊とかはしてないです。でもね、やっぱりちょっと、おかしくなった。暇があると店に行くようになって、羽村だけじゃなくて、新宿や川口、錦糸町に横浜と、方々のカジノに行きました。その頃にはもう違法賭博だってわかってたけど、止まらなかったです」
大勝に次ぐ大勝は単なるビギナーズラックだったのか、それとものちの搾取に向けての誘い水だったのか、今となっては知るよしもない。当然、ギャンブルに勝ちっぱなしなどあるはずもなく、負けが込み始めた。
「ずっと負け続けているわけじゃなくて、たまに勝っちゃうから引き際がわからなくなってくるんですよ。1回の張り方もどんどん高額になっていきました。勝った時は『100万くらいでやめよう』と思うんだけど、負ける時は100万円じゃきかないんですよ。むしろ、最後のほうは、1回の張りが100万円を超えることもありました」
負け分を取り返すために借金をして勝負するという悪循環で、案の定、カジノ店から後ろ暗い金貸しを紹介されることもあった。借金は雪ダルマ式に増えていく一方だった。
「負けたり勝ったりで、気がつくと『借金を返すにはバカラしかない』って状態でした。1万円が300万円になることもあるから、それしか思いつかなかった。カード会社からは全部引っ張って、トイチの闇金にも手を出しました。商売やってた頃の知り合いにも『会社の資金繰りが危ない』と言って、180人くらいから借りまくりました。でも、結局ダメだった。たった1年半で、一気に3億5000万円までいきました」
ゴールデンゴールズを2年で退団した羽生田氏は07年当時、「岩手21赤べこ野球軍団」というチームで、監督として指揮を執っていた。岩手県の社会人チームながら、スポンサーの本社が所沢市にある関係で練習は関東で行われるため、羽生田氏も自宅を離れる必要がなかった。もはや、カジノ通いは止まらない。
「赤べこの監督になってから、本格的に返済が滞り始めたんです。カジノに行く頻度も増えてきました」