いつの日か写真集を出したい
78年10月にスタートした「西遊記」(日本テレビ)は、雅子の美貌をさらに世に知らしめた。三蔵法師を女優が演じるというのも初めてのことだったが、後の牧瀬里穂や深津絵里など、すっかりスタンダードになっている。
そのドラマの直前に公開された「トラック野郎・男一匹桃次郎」(77年/東映)で、雅子は6代目マドンナに抜擢されている。監督の鈴木則文は、その理由を「一目惚れだった」と明快にする。「化粧品のポスターが人気があって、写真を見て僕が『この子!』って言ったんだよ。まだ芸能界ズレしていないし、映画もこれが初めてだったから、カチンコを触っては珍しがっていたね」
主演の菅原文太や愛川欽也にもかわいがられ、少しずつ演技にも成長が見られた。雅子は本名でのデビュー作だったドラマ「愛が見えますか」(76年/日本テレビ)では、実に「57回連続NG」という胃が痛くなるような経験をしている。この「トラック野郎」でもNGは少なくなかったが、とらえ方は違った。
「NGを何回やっても悪びれず堂々としていたよ。僕が書いたシナリオでは役名も『小早川雅子』で同じ名前だったんだけど、それを聞いて素直に『頑張るわ!』って言ったから」
70年代の邦画界において、シリーズにマドンナが登場するのは松竹の「男はつらいよ」、そして東映の「トラック野郎」だった。いずれも物語の重要なカギを握るが、その選出は違ったと鈴木は言う。
「演技力や世間的な実績が必要とされるのが『寅さん』のほう。こっちは素人でもいいから旬な人を起用したい。極端に言えば、写真1枚が輝いていればいい」
結果的に鈴木は、夏目雅子という女優は東映に合っていたと分析する。松竹のヒロインは「理論的なキャラクター」になってしまうが、芝居のメリハリから言えば東映のほうが向いている。それは、後に「鬼龍院花子の生涯」82年/東映)という渾身の傑作が生まれたことでも明らかだ。
「あの若さで死ぬなんてびっくりしたよね。もう少しで大女優になるだろうって思っていたから」
さて再び写真家の田川清美の回想である。田川は初CMの後も、誰に頼まれるともなく雅子を撮り続けた。映画やドラマのロケ地を訪ね、撮影の邪魔にならないようにシャッターを切り続けた。
やがて田川は、雅子に「いつの日か写真集を出したい」と打ち明ける。81年のことである。
「雅子ちゃんが甲状腺の手術(バセドウ病によるもの)を終えて間もなく、横浜のレストランでお願いしたよ。今すぐというわけではなく、5年、10年と撮りためて完成させようって」
雅子は、この申し出を快諾する。ただし、その完成品を見ることはなく逝ってしまうのだが‥‥。