半世紀の間に誕生したキャンペーンガールは、数千人にも達する。その膨大なリストの中から、これぞ傑作というショットを厳選する。
「ハワイの妖精」と呼ばれて空前のブームを起こしたアグネス・ラム(59)が初来日した75年11月のこと。アサヒ芸能も渋谷・東急本店で行われたサイン会を取材しているが、そこでカメラマンは奇妙な光景を見た。
「カメラ小僧たちがラムを撮るのは当たり前だけど、むしろ、会場に貼ってあった彼女のポスターに黒山の人だかりができていた」
初代のクラリオンガールであるラムのポスターが、いかに高い完成度であったかを証明している。
夭折の美人女優・夏目雅子(享年27)も77年、カネボウのキャンペーンガールとなったことで第一線に躍り出た。商品が「夏の目玉」であったことから夏目雅子に改名したように、筋金入りの夏ムスメと言える。
そんな夏目のポスターは焼けた肌に手ブラの大胆ポーズ。チュニジアでのCM撮影に同行した写真家・田川清美氏が回想している。
「浜辺でデッキチェアに座っていた雅子ちゃんに『バスタオルを外してみてくれる?』って言ったら、何のためらいもなく上半身ヌードになって、カメラに笑顔を向けてくれたよ」
幻のヌード写真は夏目の没後、母親の了承のもとに公開された。77年に日本中に貼られた手ブラポスターの衝撃が再びよみがえった形となった。
キャンペーンガールのポスターの最高傑作に数えられるのは、80年に6代目クラリオンガールとして旋風を巻き起こした烏丸せつこ(60)だ。豊満な乳房をレイで包むという大胆なデザインは、一般のみならず、プロの目にも衝撃を与えた。
巨乳の総本山と呼ばれたイエローキャブを設立した野田義治氏は、かつて本誌に、原動力が烏丸であったことを明かしている。
「あれを超えるポスターはなかったよ。いつか、あれを上回るビジュアルを作りたいと思った」
烏丸自身は世間がバストばかりを注目するのに反感を持ったようだが、インパクトは絶大だった。烏丸のデビューからちょうど10年後、野田氏が秘蔵っ子であるかとうれいこ(46)を16代目のクラリオンガールに送り込んだのは、烏丸への尊敬の念を感じさせる。
さて、キャンペーンガールの多くが東京の芸能事務所に所属しているのに対し、仙台のモデル事務所にいながら、カネボウの水着キャンペーンガールとなったのが鈴木京香(47)だ。昭和最後の年となった88年、美貌はもちろんのこと、あまりにも斬新な水着に男たちが騒然となった。
さるグラビア誌編集者が語る。
「浜辺で横たわっているポーズがあるんですが、水着の胸の中央部分だけをくりぬいて、たわわなバストがほぼ全開になっている。やや垂れ気味な軟乳であることもエロティックで、限定品のテレカには高値がつきました」
京香がバスト推しなら、93年のユニチカ水着キャンペーンモデルに選出された内田有紀(39)はヒップ推しである。当時17歳で、すでにトップアイドルの階段を駆け上がっていたが、そのポーズには誰もがKOされた。さるグラビアカメラマンが言う。
「宮沢りえのふんどしポスターも衝撃でしたが、それと並んで『ハミ尻』をこれでもかと見せつけた。内田の躍動感にあふれた体つきとボーイッシュな笑顔のおかげでエロを感じさせないが、それでも、見えているナマ尻の面積はキャンペーンガール史のナンバーワンでしょう」
21世紀以降、多くの企業がキャンペーンガールから撤退している今、歴史を塗り替える名作は生まれそうもない。