この70年、国内外に衝撃を与えたのが三島由紀夫の割腹での自死だった。
11月25日の午前11時前、みずから主宰する「楯の会」の若者4人とともに会の制服を着用して自衛隊市ヶ谷駐屯地に乗り込み、益田兼利総監を人質とすると、バルコニー前に自衛隊員約1000人を集合させて檄文をまく一方、憲法を改正し、自衛隊を国軍とするためのクーデターを呼びかけたのだ。三島はバルコニーからこう叫んだ。
「日本を日本の真姿に戻して、そこで死ぬのだ。生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくしてなんの軍隊だ。いまこそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。これを骨抜きにしてしまった憲法に体をぶつけて死ぬ奴はいないのか」
だが、隊員からヤジが激しかったため、演説はほとんど聞こえなかったという。絶望した三島は午後0時15分頃、会員・森田必勝とともに総監室内で割腹自殺をしたのだった。
水曜日のこの日、編集部は企画会議の真っ最中だった。テレビのニュースで事件を知ると、記者ふたりとカメラマンが社を飛び出し、現場取材のうえ、特集記事をまとめたが、12月10日号で目を引くのは「三島由紀夫割腹自殺にもう1つの理由」と題する記事である。三島にぞっこん惚れ込まれたという元憲兵曹長の宮崎清隆氏(当時は鉄道弘済会本部職員生計所長)を探し出し、生前のエピソードをいくつも引き出している。
ひとつは三島からこう言われたという話。
〈「はじめて会ったとき、あんたの目つきが恐かった。でも、こうして会っていると、グイグイ引かれる人間的魅力が、あなたにはある。あなたのような男になりたいなあ」〉
お読みのとおり。これは同性愛の嗜好のあった三島由紀夫の口説き文句なのだ。果たして、彼は宮崎氏に「わたしは、いままで文学上の弟子は持たないことにしてましたが、あなたなら……」といったり、銀座の洋服店で15万円もする舶来のスーツをプレゼントしたり、アツアツだったという。
ノーベル文学賞も取り沙汰された“文豪”の素顔がうかがえる逸話であろう。
これに付記すれば、12月24日号に載った児玉誉士夫氏への「特別インタビュー」も一種のスクープといえよう。この右翼の“黒幕”はいう。
〈「自衛隊にクーデターを呼びかけて失敗したので、それに憤激し、かっとなって割腹自殺したと非難するものもいますが、三島氏の死は、底知れない深いところから発したことを知るべきでしょう。(中略)氏は自衛隊のむなしさ、そして自衛隊に呼びかけることばのむなしさを知りつつ、自分の鮮血によって『憲法改正』の必要性を訴えたものだと思いますね。心なき政治家どもは『気違い沙汰』とか『迷惑千万』とか心ない非難をしていますが、現在、生きている日本人のなかに、三島氏の死を非難する資格のある者がひとりでもいますか。もしいるとすれば、人間の良心と良識を失ったアホといわねばならん〉
右であれ、左であれ、当時の日本人に多くの問いを投げかけたのが三島事件であった。