70年代の日本は高度経済成長が一段落するが、70年3月14日から約半年間、大阪府吹田市の千里丘陵で開催された「日本万国博覧会」(通称・大阪万博)で幕を開けた。お祭りムードのなかで学生運動は退潮。それまでの“政治の季節”は終わり、田中角栄首相の誕生と終焉から始まる新たな狂騒と混乱の時代に入っていった。
アメリカのニクソン大統領がドルと金の交換停止を発表した出来事が「ドル・ショック」。これによって米ドルは大暴落、日本円はそれまでの1ドル=360円から変動相場制に移行、1ドルは320円、310円、300円と、上り続けた。そのためわが国は“円高不況”に見舞われ、9月23日号には「ドルショック・エレジー」という正攻法の記事が載っている。
〈日ごろメンツを尊ぶことでは人後に落ちない三井、三菱といった大企業までが先陣を切っての首切り宣言をすれば、三洋電機はボーナス要求のダウンを発表するなど、暮れを待たずに不況の嵐はサラリーマンの胸にヒシヒシと……。〉
そんな暗いムードを吹き飛ばしたのが、72年7月の自民党・田中角栄氏の首相就任であった。高等小学校卒という低い学歴でありながら首相の座に上り詰めたため、「今太閤」と騒がれ、内閣支持率は当初70%を超えていた。
いま、ベストセラーになっている石原慎太郎『天才』ではないが、角栄氏がじっさい魅力的な人物であったことは確かである。たとえば、彼の後援会である「越山会」の婦人部総会ではこんなスピーチをしている。「三年保育なんて、口ばっかり達者になって、こりゃあ何にもなりゃあせんッ。一昨日か孫のところに行ってきたら『ジイさんが来た。逃げろッ』なんていう(爆笑)。私の娘がどういう教育を孫にしてるかわからなんが、これは許しがたきことです(哄笑)。笑いごとではないッ。いや笑いのなかに真実がある」と。
しかし、絶大な人気を誇った田中首相も74年10月、月刊誌「文藝春秋」に「田中角栄研究」「淋しき越山会の女王」が載り、カネと女の問題が暴かれると、窮地に追い込まれた。74年11月7日号には政治部記者と代議士秘書の座談会が載っている。
〈B 角さんがこわがっているのは“金脈”じゃなくて“人脈”(女性問題)だっていうじゃない。
C いままではカネとオンナは攻撃しないという“下半身の仁義”があったのに(笑)。
D 若手の小泉純一郎なんかも言ってました。「いままでは、悪いことをしてカネを儲けるとか、よそに女がいるとか、子どもがいるとか……そういうのが実力者の条件だったけど、これからはこういった悪弊を叩きこわすべきだ」って〉
小泉元首相は若い頃から、「叩きこわす」や「ぶっ壊す」が口癖だったのだ。
いや、冗談はさておき、この人脈・金脈問題で首相退陣に追い込まれた(74年12月)後も、田中元首相は“闇将軍”として党内に隠然たる勢力を築いていた。
しかし、退陣から約1年後の76年2月、今度は「ロッキード事件」に見舞われることになった。
米ロッキード社の全日空への航空機売り込みに際し、田中元首相は5億円のワイロを受け取っていたとして逮捕されることになったのである。
そんな“角栄騒動”が耳目を集めていたとき、庶民の生活を襲ったのが「オイル・ショック」であった。
73年10月、第4次中東戦争が勃発すると、アラブ石油輸出国機構は原油価格を4倍にも上げたため、人々はある種のパニックに陥った。トイレットペーパーや洗剤などの買い占め騒動が広がり、紙不足の怖れから週刊誌や漫画雑誌のページ数も軒並み減らされた。
そして、79年になると、ホメイニ師を指導者とするイラン革命の勃発で「第2次オイル・ショック」が到来。
わが国は先行きの見通しがきかないまま、80年代を迎えることになったのである。