樺美智子さんは60年6月15日のデモで全学連主流派が衆議院南通用門から国会に突入した際、警官隊と衝突して死亡した。アサヒ芸能1960年7月3日号では、国会構内に運び出された樺美智子さんの血の気がうせている写真を掲載している。
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「娘は殺されたのです。警察の発表では、娘の死因は圧死ということになっています。しかし、解剖に立ち会った知人の話によると、解剖の結果からみて、娘はまず警官に頭を殴られ、頭をかばおうとした手を棍棒でたたかれ、さらに首を腕でしめつけられ窒息状態で倒れるところをひざで蹴上られたものと判断されます」
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美智子さんの父親、中央大学・樺俊雄教授の弁である。
当時の発表では、美智子さんのなきがらは、翌16日、慶應病院で解剖された。同日、東京地検は、
「頭に外傷などの異常はない。死因は、窒息死、腹部に強い圧迫が加わったための急性出血性すい臓炎、両方が同時におこったものか、いずれかである。首の両側にも出血があった」
と発表した。
警棒で殴り殺されたのではなく、“デモ隊に押されて死んだ〞とにおわせるようなものだった。
ところで美智子さんの解剖に立会った医師・坂本昭参議院議員は、同号でこう所見を述べている。
「直接死因はすい臓出血によるショック死で、ほとんど瞬間死に近い。上腹部の外圧は正常に加えられたものではない。警棒により脳震盪を起し、あおむけに倒れているとき、或いは頸部をしめられて意識を失って、腹筋がゆるんでしまってから上腹部に膝頭或いは足をもって強圧をうけ、致命的なすい臓出血を見たのではないか」
当日、国会前で樺さんと行動をともにした学生たちもみな、警官隊に殺された、と証言しているのだが。