仰木とイチローの関係は、確かに仕事を仲立ちとした上下関係にすぎない。だが、単なる職場での「上司と部下」なら、仕事だけでここまでの“師弟関係”は生まれないだろう。
そうした意味で興味深いのは、仰木は公私の別をあまりつけようとしなかった点だろう。監督と選手は一線を画すべきという指導者も多いが、仰木はそれをあまり気にしなかった。「試合での集中力を維持するためには、時にはハメを外すことも必要」と考えていた。だからこそ、宴席にもイチローとともに出ることが多かった。
時には「同じ名前だから」ということで、女優の一路真輝なども招待するしゃれっ気も見せていた。
球界屈指の遊び人とも言われた仰木の私的な顔に、知らず知らずのうちに、人間性を見つけているイチローの姿があったのも事実だ。
そんな酔いの席で、仰木は事あるごとにこう言った。
「仕事でも、女性を口説くのも、自分の特徴を最大限に生かせ」
時にはイチローに女性との交際の心得も訓示し、「逃げ足が速いって言われたっていいんだ。自分の特徴なんだから」
と豪快に笑ったりした。
94年、オリックスが優勝を争ったシーズン。終盤までイチローは三冠王争いに身を置いていた。だが、わずか2本の差で本塁打王の座を小久保裕紀(当時ダイエー、現ソフトバンク)に取られたことがあった。めったにないチャンスだったが、イチローは本塁打よりもチームバッティングを優先した。「己の特徴を知れ」という言葉どおり足を生かして得点打にこだわった。その結果、優勝を手にしたことがあった。
優勝争いに加わっていないチームだったならば、本塁打狙いに徹して三冠王も夢ではなかったはずだが、仰木がいみじくも言った言葉を思い出す。
「優勝争いの中では、故人の記録以上に必要なものがある。個を捨てられるのは、優勝の時なんだよ。それを知るには、勝つしかないんだ」
仰木は優勝争いの最中にこう言って、部下を鼓舞した。イチローとしても初めての優勝の経験である。
そして、その年の日本シリーズに出場。ヤクルトの野村克也監督(当時)に翻弄され日本一を逃す。
その時の悔しさがあるからこそ、翌年の日本一につながっていくのだが、その時に尻を叩いていた仰木の「喜びを知ったからこそ、悔しさが出てきたはず」という指導法は、「己を知って勝つ喜びを知れ」ということだった。
かつて、田淵幸一(現楽天ヘッドコーチ)は「いちばん理想の上司は優勝の体験をさせてくれた人」と言っていたことがあったが、当時のイチローからすれば、言われるがままにやってきた体験だけに肌の中までしみこんでいるのではないか。
そして、現在。いよいよ晩年を迎えるイチローは、「結果は与えられるものではなく、取りに行くもの。そのためには止まっていてはダメ」
と、ヤンキースに移籍した。マリナーズ時代の2割6分1厘の打率から、ヤンキースに移ってからは打率3割2分2厘(26試合時点)と確実にモチベーションも上がってきた。そして「優勝のためには個を捨てられる状態」に入ってきているのだ。
「これは必要だなと思った時、無理をしても取りに行くのが僕の考え方です」
きっとスーパースターという鎧が、38歳のイチローには少々重荷になってしまったのかもしれない。