70~80年代に放送された「元祖どっきりカメラ」(日本テレビ系)に出演し、「どっきりカメラ NTV」と書かれたプラカードを掲げて現れる“ネタばらし役”で一世を風靡した野呂圭介(84)。なんと、18年前から陶芸家に転身していた。現在は鹿児島に住居兼工房を構え、活動中だ。かつての思い出話を聞くとともに、“疑惑”も直撃した。
──そもそも「どっきりカメラ」出演のきっかけは?
野呂 「どっきり」に出る前は、日活で俳優をしてました。今年2月に亡くなられた鈴木清順監督に拾われたんですが、その恩人が67年に解雇され、僕もあとを追うように69年で日活を辞めました。「お前、辞めてどうするんだ?」と清順さんに心配されましたね。それを知った宍戸錠さんが「ウチの事務所に来たら?」と誘ってくれたんですよ。錠さんは同い年で仲がよかった。で、運のいいことに所属して半年したら、錠さん司会の「どっきり」が始まりました。大スター・錠さんのいわゆる“バーター出演”だったわけです。
──宍戸錠さんと同い年ということは1933年生まれのはずなんですが、「ウィキペディア」では37年生まれとなっています。どちらが正しいのでしょうか?
野呂 それは、4歳サバ読んでいた時代の名残です(笑)。58年当時、日活のニューフェイスの年齢制限が18~22歳。すでに僕は25歳でしたから。それに、出身地も詐称してました。履歴書に鹿児島と書くと「ナマッてるんじゃないか」と思われる可能性を考えて「静岡県清水市」と。東京に離れず近づかずナマリのない地域を選びました(笑)。
──「どっきり」の収録で、鹿児島から東京に通っていたというのは本当ですか?
野呂 「どっきり」が毎週放送されていた前半の10年間は東京に住んでいました。ところが、めまいに断続的に襲われるメニエール病を患ってしまいまして。恐らく「どっきり」の心労がタタッたんでしょう(笑)。環境を変える「転地療養」を医師に勧められ、「どっきり」が年4回の放送になった78年を機に、故郷の鹿児島に戻り、こっちから東京に通うことにしたんです。
──鹿児島-東京間を飛行機で飛ぶのではなく、支給された航空チケットを売って、電車の鈍行で通っていたという伝説がまことしやかに流れているのですが?
野呂 ウソですよ(笑)。すごいですね~。ウソが流れてますね。ちゃんと飛行機で通ってましたよ。
──今でも「どっきり」の同窓会があるというのは本当ですか?
野呂 それは本当。毎年やってます。ちなみに、去年の出席者は錠さん、林家ペー、ガッツ石松、石川牧子アナ。あとはスタッフですね。総勢で40~50人は集まります。去年の会場は有楽町のガード下、その前は交通会館だったかな? 貸し切りでね。飲んだり食ったり、昔のVTRを流したり。スタッフは大半が日テレを辞めて隠居した連中ですから、家にいてもしょうがないので、同窓会を楽しみにしてる。同窓会が30年以上続く番組なんて他にない。「どっきり」のスタッフは結束が固いね。
──ところで、野呂さんの陶芸作品の価格はどのくらいでしょうか?
野呂 僕の作品は無数の穴があいた陶器の中に電灯を入れ陶器をランプシェードに見立てる「灯芸」。50センチ級の大きなものだと10万円以上になりますね。
──「どっきり」の同窓会で、メンバーに売りつけているというのは本当ですか(笑)?
野呂 いや、こればかりは興味がない人にはねぇ。錠さんは買ってくれました。持って帰ったか、飲み屋に置いて帰ったかどうかは知りませんけど(笑)。僕が配ってる名刺には「灯芸」作品を5点くらい載せてます。それを見て興味を示してくれれば勧めますけどね。ガッツは去年初めて同窓会に来たんですよ。もし今年も来たら押し売りしてみます(笑)。