マスメディアで人気の花形弁護士として活躍後、一転して政治家へと転身し、大阪府知事や大阪市長を歴任した橋下徹氏。その橋下氏の母校も、春の選抜優勝校である。高校ラグビーでも優勝するなど大阪府きっての文武両立の名門として知られる府立北野高校がそれである。
北野は戦後すぐの1948年第20回大会に北野中として春選抜に初出場。みごとベスト4まで勝ち進むと翌49年、学制改革により、中等野球が高校野球へと変わってからの最初の大会にも2年連続出場を果たした。原動力となったのが速球派の山本次郎と左腕で技巧派の多胡隆司(慶大‐鐘紡)の2枚看板投手陣。初戦の日川(山梨)戦は打線が爆発して10‐1で山本が余裕の完投勝利を収めた。続く準々決勝の桐蔭(和歌山)戦では多胡が完投して6‐3で勝利し、ベスト4へと進出した。準決勝では岐阜商(現・県岐阜商)相手に接戦となったが、山本から多胡へのリレーで相手打線をかわして3‐2で勝利。2度目の選抜で前年のベスト4を上回る成績の決勝戦進出を果たしたのである。
決勝戦は芦屋(兵庫)との阪神対決となった。勝てばともに選抜初優勝となる試合は9回表を終わって北野が2‐0とリード。しかしここから芦屋の反撃を許し、同点に追いつかれてしまう。そして延長戦に突入した10回表、北野は5番の多胡がタイムリーを放ち2点を勝ち越し。この試合、2度目の王手をかけたのだ。
ところが初優勝に燃える芦屋はしぶとかった。土俵際から蘇ったようにその裏にも2点を取って再び同点とし、なおも1アウト満塁と一打サヨナラ優勝のチャンスをつかんだのである。この絶好の場面で芦屋は次打者がレフトへのライナー。三塁走者はタッチアップで優勝を決めるホームへ猛然とヘッドスライディングし、劇的な芦屋のサヨナラ優勝かと思われた。だが、次の瞬間、主審はなぜか手を横に振っていた。
実は北野のレフト・長谷川圭市はバックホームせずに迷わず二塁に送球していた。痛烈なライナー性の当たりにつられて二塁走者が飛び出していたのを見逃さなかったのだ。結果、三塁走者のホームインよりも先に二塁走者がアウトとなり、ダブルプレーが成立。芦屋は紫紺の大旗へとつながる決勝点を奪うことが出来なかった。
これで死地から生き返った北野は12回表にファインプレーの長谷川が今度はスクイズを決めるなどで2点を勝ち越し。三度目の正直で北野は多胡が芦屋に反撃を許さず、6‐4で振り切って念願の選抜初制覇を果たしたのだった。
この翌年の選抜にも北野はエース・多胡が健在でベスト4に進出。だが、準決勝で韮山(静岡)に3‐7で敗れ、惜しくも連覇はならなかった。
(高校野球評論家・上杉純也)=一部敬称略=