横浜時代には2年連続のホームラン王を獲得するなど4番打者として君臨。FAで巨人に移籍した今も主軸を打つなど、セ・リーグを代表する右の長距離砲の一人である村田修一。彼はいわゆる“松坂世代”だが、それのみならず、高校時代に甲子園で松坂大輔(現・ソフトバング)と対戦した貴重なプレイヤーでもある。それも、エースとして…。
98年の春選抜。村田は東福岡のエース兼3番打者として初の甲子園の土を踏んだ。初戦の出雲北陵(島根)戦は、投げては球質の重い速球と切れのあるスライダーで連打を許さず散発6安打の無失点投球。打っては先制タイムリーを含む3安打と、まさにチームの主軸に相応しい活躍ぶりで5-0と快勝。そのいいイメージで迎えた次の対戦相手が松坂擁する横浜(神奈川)だったのだ。
試合は投手戦となった。140キロ台後半を連発する松坂に対し、村田は最速136キロの速球にスライダーを交えて9奪三振。だが、6回裏に“ライバル”松坂にレフトフェンス直撃の先制タイムリーツーベースを許すと、結果的に被安打9で3失点。かたや肝心の打撃でも松坂の前に4打数ノーヒット2三振。チームも13三振を喫して0-3の完封負け。完膚なきまでに叩きのめされてしまう。
同年夏。松坂へのリベンジを誓った村田はチームを春夏連続出場へと導いた。その初戦で激突したのが、大物スラッガーとして話題を集めていた古木克明(元・横浜など)を擁する豊田大谷(東愛知)だった。投手・村田は5回裏1死二、三塁からその古木にセンター前タイムリーを許し2点を献上。7回裏には味方の守備の乱れもあって4失点を喫してしまった。それでも8回表に村田の意地のタイムリースリーベースなどで東福岡は4点を返したが、時すでに遅し。4-6で無念の初戦敗退となり、松坂との再戦には遠く届かなかった。
とはいえ、打者・村田はこの試合3安打の猛打賞。打者としての才能の片鱗をみせ、聖地をあとにした。そして、この試合を最後に野手へと転向。村田にとって甲子園は「投手としては松坂には勝てない」という限界を気づかせてくれた場所となったのである。
(高校野球評論家・上杉純也)