大会4日目の第1試合に登場する下関国際(山口)。昨年夏の選手権初出場に続き、今回は春の選抜初出場となった。同じ地元・下関市には、山口県勢で唯一、春の選抜を制覇している高校がある。神戸、大阪、横浜、名古屋に次いで日本で5番目に設立された商業高校・下関商である。
地元の人からは親しみを込めて「下商(しもしょう)」との愛称で呼ばれる同校は、戦前だけで春6回、夏3回の甲子園出場を果たしている古豪。1939年の第25回夏の選手権では準優勝を果たしたほどだった。戦後も下商は甲子園に姿を現すが、なかなか勝ちきることができなかったが、そこに現れたのが池永正明(元・西鉄。現在の埼玉西武)-秋田健二の2年生バッテリーだった。
舞台は1963年の第35回春の選抜である。1回戦で対戦したのは強力打線が自慢でこの年の選抜の優勝候補筆頭に推されていた明星(大阪)。池永はこの強敵を快速球でねじ伏せ、味方打線も5点を叩き出し、5‐0の完勝劇を演じたのだ。
続く2回戦は海南(和歌山)の前に苦戦。2‐2で延長戦に突入し、迎えた16回裏。池永自身が相手エースの山下慶徳(元・ヤクルトなど)から左中間へサヨナラ二塁打を放って試合にケリをつけたのだった。
準々決勝の御所工(現・御所実=奈良)も苦闘のうえの勝利だった。池永は相手打線を5回裏の2失点だけに抑えるも、味方打線が沈黙。9回表に一挙3点を挙げての逆転勝ちだった。準決勝の市神港(兵庫)戦も4‐1での逆転勝利。こうして下商は初めて春の選抜の決勝戦へと進出した。
決勝戦の相手は春夏を通じて初めて北海道勢として決勝戦進出を果たした北海。前日の準決勝では強豪・早稲田実(東京)に9回裏、5‐7から大逆転サヨナラ勝ちしているだけに勢いに乗っていた。だが、その北海の前に池永の快速球が立ちはだかった。打線も3回と4回に4点ずつを取り、早めに池永を援護。結局、10‐0の圧勝劇。山口県に初めて紫紺の大旗が渡ることとなった。
同年夏。前年の作新学院(栃木)に続く史上2校目の春夏連覇を狙って下商は甲子園に乗り込む。順調に勝ち進み、決勝戦へと進出。春の選抜1回戦で完勝した明星との対戦となった。だがこの時、肩を痛めていた池永は万全ではなく、1‐2で相手にリベンジを許したのだった。翌年の選抜も池永はエースとして甲子園に乗り込み、史上2校目の春連覇を狙ったが、初戦で博多工(福岡)の前に4‐5で不覚。夏は県予選で敗退した。
その後、池永は西鉄ライオンズに入団。1年目から20勝を挙げ、5年間で99勝するも、プロ野球の八百長事件、いわゆる“黒い霧事件”に巻き込まれて、1970年のシーズン途中で永久追放処分を受け、プロ野球界から去ることに。2005年に処分が解除され、復権するまで実に35年もの月日が流れたのである。
(高校野球評論家・上杉純也)=敬称略=