1915年(大正4年)に産声を挙げた現在の高校野球夏の選手権大会。その第1回全国中等学校優勝野球大会が行われた球場は現在の甲子園球場ではなく、大阪府にあった豊中球場(第2回大会まで)だった。
東北、東海、関西、九州地区で開催された地方予選参加校73校から10校が集まった。この豊中球場は陸上競技場を兼ねていたこともあって、右翼が狭く、左翼が広かった。観客席もテントとよしず張りという質素さ。さらに外野は縄をはりめぐらせただけだったというから、現在の河川敷よりもお粗末だが、当時としては日本一のスケールだったという。
そんな記念すべき第1回大会でみごと優勝を飾ったのが京都二中(現・鳥羽)である。本大会は準々決勝から登場し、まずは高松中(現・高松=香川)相手に11長短打の15盗塁で15‐0というワンサイドゲームで大勝。続く準決勝はこの大会優勝候補の一つだった和歌山中(現・桐蔭)と対戦。試合は1‐1の投手戦となったが、同点の9回裏、京都二中が1死1塁という場面で、降雨引き分けに。一転、再試合は打ち合いとなったが、和歌山中の守備の乱れもあり、2回裏を除く毎回得点を記録した京都二中が9‐5で勝利し、決勝戦進出を決めたのだった。
決勝戦の相手は東北代表の秋田中(現・秋田)。準決勝で優勝最右翼と言われた早稲田実(東京)を3‐1で破っており、投打のスケールは京都二中よりも上とされていた。しかも、準決勝で再試合を経験した京都二中に比べ休養十分。そのため戦前の予想は“秋田中の圧勝”という見方が圧倒的だった。
しかし、試合は予想を大きく覆す接戦となる。京都二中はエース・藤田元がサブマリンから鋭いキレ味の変化球を駆使し、7回表に1点を失ったのみだった。打線も8回裏に連打で同点に追いつくと、そのまま延長戦へ突入。迎えた13回裏に大場茂八郎が出塁してすぐに二盗。この場面で津田良三が決勝サヨナラ打を放って第1回大会は劇的な幕切れを迎えたのである。ちなみに現在でも高校野球において“優勝旗の白河の関越え”という言葉をよく耳にするが、この時もし秋田中が勝っていれば、“白河越え”という言葉は生まれていなかったということになるワケだ。
なお、この後、京都二中は戦後の48年の学制改革で廃校となるが、84年にかつて京都二中があった跡地にその流れを汲む継承校として府立の鳥羽が開校。第1回大会の優勝校である名門校の廃校を惜しみ、その復活を期待する関係者も多かったことから、高野連は特別に、鳥羽は京都二中の後身とする見解を示している。
(高校野球評論家・上杉純也)=敬称略=