1998年に甲子園11連勝を記録し、史上5校目の春夏連覇を達成した横浜(神奈川)。その中心にいたのが“平成の怪物”松坂大輔であった。彼を“平成の怪物”へと進化するために、どうしても必要だったのが、松坂が高校2年生時の97年第79回夏の選手権神奈川県予選準決勝の横浜商(=通称・Y校)戦である。
「ここまで来たら、戦う相手は強豪ばかり。ただ、準決勝のY校戦に勝てば、決勝戦は春の県大会決勝でも戦って、手の内がわかっていた桐蔭学園。だからこの一戦が非常に大事な試合になると思っていました」
と、のちに松坂本人が語った通り、この大一番で松坂の右腕が冴えた。7回までY校打線を被安打2の1失点に抑えたのだ。
その一方で味方打線は10安打を放つも奪った得点はわずか1点。1‐1の同点で試合終盤を迎えていた。だが、8回表に横浜が待望の勝ち越し点をあげ、2‐1とリードする。あとは松坂が残り2イニングを抑えるだけだった。
しかし、松坂の運命が暗転したのは9回裏だった。先頭打者を7イニングぶりとなるヒットで出塁させてしまうと、続く打者の送りバントが内野安打となり、長打一発で逆転サヨナラ負けのピンチを招いてしまったのだ。続く打者に送りバントでランナーを進められると、一、二塁間を抜けるライト前タイムリーを浴び、試合は振り出しに。
なおも1死一、三塁と一打サヨナラのピンチが続く。ここで横浜ベンチはタイムをかけて伝令を送ったのだが、実はこの時伝令役を務めたのは、松坂の1学年上で現在はタレントとして活躍中の上地雄輔だった。しかし、松坂はこの大事な局面での上地からの指示をまったく覚えていなかった。次のバッターが仕掛けてくるに違いない“スクイズ”を警戒することしか考えていなかったのだ。それは、まるで走る素振りを見せなかった三塁ランナーに対しても、必要以上に敏感になっていた松坂が精神的に追い込まれていた証拠でもあった。これまでスクイズを外す練習は重ねていたハズなのだが、
「バントが難しい球を投げておけば大丈夫という気持ちがなかった。当時の自分にはそこまでの自信がなかった」
と、次打者に安易に投げた初球が痛恨のワイルドピッチとなってしまったのである。
この日の敗戦を境に“サボリのマツ”と言われるほど練習嫌いだった松坂が奮起した。“平成の怪物”の覚醒である。そして新チーム結成後の横浜は公式戦で無敗の44連勝。高校野球史上最強チームと呼ばれるようになっていくのであった。
(高校野球評論家・上杉純也)