まず82年にテスコボーイからリーディングサイヤーの座を奪い取ると、その座を11年連続で「防衛」。その間には、善哉氏の悲願だった日本ダービー制覇(86年)も同種牡馬の仔、ダイナガリバーで成し遂げた。
この成功により、社台は量だけでなく、質の面でも申し分のないオーナーブリーダーとして認知される。
このノーザンテースト旋風が吹きまくった10年間ほどが、社台の第1期黄金時代と言えるが、実はノーザンテーストの仔が走り始めるまでは、なかなか馬が売れずに苦しんだ。
ひとつには、ノーザンテースト以前に社台が導入した種牡馬が不振だったこと。そして不景気による馬主の買い渋りもあった。
もともと日本の税制のもとでは馬を持つことは難しいと言われるが、オイルショック後の不景気で馬主のなり手が激減し、馬が売れなくなっていたのだ。
「救いとなったのは、80年に日本最初のクレジットカード会社ダイナースクラブから会員制クラブ馬主設立、いわゆる一口馬主制度の話を持ちかけられ、『社台ダイナースサラブレッドクラブ』(現在の『社台サラブレッドクラブ』)を始めたことでした」
こう語るのはさる馬主関係者。競馬ファンなら誰しもが馬を持つことを夢みるが、馬代金の20 分の1の投資で、中流階級の人たちに「馬主気分」を味わえるようにしたのである。この新たな馬主層の開拓が、今日の「社台1強」の礎となったことは疑いようがない。
この一口馬主制度は提供する馬の質だけでなく、サービス面でも既存のクラブを圧倒するものだった。のちに10人に限り口取りまでできるようになるほどだ。先の馬主関係者が続ける。
「もともと社台は、クラブ馬主のはしりである『ターファイトクラブ』が一番のお得意さんだったこともあり、そこから運営のノウハウをつかんでいた。だから難なくスタートできました。やれば、産地直送で馬を売れるというメリットも生かせますしね」
ターファイトクラブは、いわゆる会員制馬主クラブの先駆け。現在は、北海道日高地区を中心に、40以上の生産牧場が集まって運営する、馬産地直結型のクラブである。問題は、クラブのイメージアップにつながるような「走る馬」を出せるかどうかだった。「走る馬」さえ出れば、会員も増えていくし、その分、馬も売りやすくなる。だが当時「クラブ馬はそこそこ走る馬を出しても、大レースは勝てない」と言われ、実際、中山大障害を勝つのが関の山だった。
「ところが社台サラブレッドクラブは違った。第1期からオークス馬ダイナカール(父はノーザンテースト)を出しましたからね。これが大きかった」(前出・ベテラントラックマン)