先のジャパンカップでその生産馬が上位を独占。「社台」が競馬界の1強と言われる象徴的なシーンである。絶対的な力は本誌既報どおり、あの天才・武豊の生殺与奪権を握っているほどだ。事実上、競馬界を牛耳る巨大王国はいかにして誕生したのか、隆盛史の舞台裏にスポットを当てる。
日本の競馬を語るうえで避けて通ることができない巨大組織「社台グループ」。社台ファーム、ノーザンファーム、追分ファーム、白老ファームといった牧場をはじめ、トレーニングセンター、会員制馬主クラブも運営する「大帝国」と言っていい。現代の競馬が「社台の運動会」と揶揄されるほど生産馬は多く、そして強い。今年、JRA重賞レースの勝ち馬のうち、約半数を社台生産馬が占める現実は象徴的だ。政治の世界ではないが、数の力を源とする勢力拡大で、社台グループは馬主、厩舎、調教師、騎手に強大な影響力、発言力を持つに至り、さながら王様として君臨、独裁政権を展開しているのである。
本誌は12月6日号で、天才と言われた武豊ですら、いったん社台に嫌われると勝ち鞍から遠ざかり、苦杯をなめる現実を伝えた。
社台グループの創始者は、吉田善哉(ぜんや)氏。すでに亡くなって19年になるが、その競馬界に残した足跡は、あまりにも大きい。
1955年から競馬人生をスタートさせた善哉氏について、ベテランのトラックマンは語る。
「社台王国が盤石なものになったのは善哉氏の晩年、80年代になってからで、それまでは中堅級の活躍馬を多く出す商売人の牧場というイメージが強かった。そのやり方は、大規模大量生産。口さがない人からは『そりゃあ、数撃ちゃ当たるよ』と言われたりもしました。また、千葉に所有していた土地が成田空港建設で高く売れて資金力が増大、当時の列島改造ブームに便乗して太っていった、とも言われました」
そんな土地絡みで入ってきた金は全て、馬と牧場につぎ込んだ。牧草地を改良したり、タブーだった昼夜放牧を始めたり、室内トレーニング場を造ったり、良血の繁殖牝馬を導入したり‥‥と、競走馬にとっていいと思えることはすぐに実行していった。
そんな「下地」を整備していた社台に、組織拡大の決定的なチャンスが訪れる。75年、種牡馬ノーザンテーストの導入だった。当時を知る競馬解説者が回想する。
「ノーザンテーストは72年のサラトガのセリで、善哉氏の長男・照哉氏がセリ落としたものですが、この際、善哉氏は『30万ドル(当時のレートで9240万円)まで出していいから、ノーザンダンサーの産駒を買ってこい!』と命じていた。ノーザンダンサー産駒はその頃、世界を席巻していて、どうしても手に入れたかったんです。結果、10万ドルで買うことができた。実物を見た善哉氏は『ノーザンダンサーに体形がそっくりだ。間違いなく走るよ。種牡馬としても絶対に成功する』と、うれしそうに語っていましたね。実際、そのとおりになった」
ノーザンテーストはフランスのGⅠラフォレ賞を勝利し、箔をつけて75年に日本で種牡馬入り。驚くべき成功を成し遂げた。