馬の使い方などを巡って調教師とやり合ったこともたびたび。名馬アンバーシャダイを管理していた二本柳俊夫調教師も「よく喧嘩をしたものだ」と苦笑いしながら証言している。
かようにワンマンだった善哉氏だが、面倒見はよかった。馬をより知りたい者には丁寧に(時にはダジャレも交えて)対応し、シンパを数多く作っていった。
「頑固でアクの強い人でしたが、それだけにカリスマ性もあった。彼に魅せられた者は数知れない。井崎脩五郎や芹澤邦雄(元サンケイスポーツ記者)などはその最たるもの。芹澤なんかはそのため、どのレースでも社台の馬に◎をつけるありさまだった。善哉氏が、彼らを行きつけの小料理屋や寿司屋でたびたび接待していたのは、競馬関係者なら知らない者はいない」(厩舎スタッフ)
また、自民党の実力者だった河野一郎氏、その息子の河野洋平氏とは強いパイプを持っていた。さらに見逃すことができないのは、善哉氏の妻が日本競馬会副理事長だった長森貞夫氏の長女であること。これにより、競馬界にニラミを効かせることができたのだ。
クラブに話を戻す。
勢力を伸ばしてきた社台サラブレッドクラブへの不満は、当然のように、個人馬主から発せられた。クラブの馬がどんどん多くなっていって、自分の馬を厩舎に預けるのが難しくなったからである。そのため、社台との関係の薄い馬主から競馬会に、クラブ馬主の馬房制限の願いが出た。
「正式な馬主資格を持っていない者たちのクラブ馬が、限りある馬房を塞いでいっていいのか」
というわけである。
結局、この主張はさまざまな議論があった末に認められ、89年、同一馬主馬の入厩制限が1馬主につき120頭が上限と決められた。
「これには社台側もすぐさま反発し、なら、別のクラブを立ち上げることにしよう(馬を分散しよう)と考えてできたのが『日本ダイナースサラブレッドクラブ』(現在の『サンデーサラブレッドクラブ』)です」(スポーツ紙レース部デスク)
実は、それよりももっと問題なのはレース面。同じレースに社台サラブレッドクラブの馬が何頭も出てきてしまうケースが出てきたから、予想をする側、馬券を買う側が(展開面など)頭を抱え込むようになってしまったのだ。前出・ベテラントラックマンが言う。
「典型的だったのが、87年の新潟記念。逃げた社台の馬ダイナフェアリーを、他3頭の社台の馬は追いかけようともせず、やすやすと逃げ切らせてしまった。これは物議を醸しましたね」
こうした背景の下、社台はますます権力を強めていくのである。 〈以下次号〉