●ゲスト:宝田明(たからだ・あきら) 1934年、朝鮮生まれ。2歳の時に家族で満州へ移住。小学5年生までをハルピンで過ごし、戦後、日本に引き揚げる。53年、高校卒業後に「東宝ニューフェイス第6期生」として東宝に入社。翌54年、映画デビュー。同年、日本特撮映画の金字塔となる「ゴジラ」で初主演を果たす。東宝の看板俳優として数多くの作品に出演、香港や台湾などでも絶大な人気を博した。舞台演劇にも多数出演し、日本のミュージカル俳優の草分けとして一時代を築いた。60年代から特撮ジャンルにも復帰し、64年の「モスラ対ゴジラ」主演から、「ゴジラ FINAL WARS」(04年)まで多くの特撮作品に出演。これまでに出演した映画は130本を超える。最新の著書「銀幕に愛をこめて ぼくはゴジラの同期生」(筑摩書房)が好評発売中。
東宝の二枚目スターとして数多くの映画・舞台に出演、俳優人生64年を迎えて今なお現役で活躍中の宝田明。このたび初の自伝を上梓、そこに書かれた、終戦を迎えた満州での過酷な少年時代や代表作「ゴジラ」の思い出、あの有名俳優たちの意外な素顔に、天才テリーも驚いた!
テリー 宝田さんが出された「銀幕に愛をこめて」という本、本当におもしろいですね。もう2回読ませていただきましたよ。
宝田 うれしいなァ、ありがとうございます。
テリー 特に子供時代を過ごした満州・ハルピン時代のお話は、もう日本史の1ページですね。1945年の8月15日を境にガラリと状況が変わったようですが、それまでの予兆みたいなものはありましたか。
宝田 ええ、8月6日にラジオから「広島に原爆が落ちた」という声が聞こえてきたことでしょうか。当時はまだ「原爆」という言葉はなくて、たしか「化学爆弾で10万以上の市民が亡くなった」と言っていました。とはいえ、まだ関東軍の精鋭部隊があちこちにいましたし、戦う余裕はあるんじゃないか、と思っていました。
テリー ほどなく終戦の日を迎えますが、その時はどんなお気持ちでしたか。
宝田 玉音放送を聞いた時は「ああ、これで日本はダメなんだな」と、内臓をえぐり取られたような気分になりました。僕らは軍国少年で「関東軍の精鋭の一員となって、祖国日本の北の防塁たらん」と思っていましたから、夢がもろくも崩れてしまったんです。父母も座り込んで、しばらく動けないような状態でした。
テリー そうなると、占領されていた中国の人たちの態度はコロッと変わったんですか?
宝田 いえ、ふだんから友好的に接していた人たちは「今、日本に帰っても苦しいでしょう。我々がかくまうから残ってください」と言ってくれるぐらい親切でしたよ。しかし、虎の威を借りる狐で、ふだんから中国人をこき使ったり、いばり散らしていた人の家は、略奪にあったりもしていましたね。
テリー その時には、もうソ連の侵攻も始まっていましたよね。
宝田 まさかソ連は火事場泥棒みたいなことはしないだろう、と思っていたら、日ソ友好条約を破って参戦して、8月20日頃になると、スターリン率いる第一機動部隊がハルピンにもドーッと入ってきた。それで関東軍は一瞬にして武装解除となりました。
テリー そうすると、どんな状況になるんですか?
宝田 頼みとしていた軍も警察機構もないし、民間人は檻の外に放り出された子羊みたいなものですよ。しかも第一線部隊はソ連の囚人部隊で、死刑になるような囚人に鉄砲を持たせているんですから。
テリー おちおち外出もできませんね。
宝田 いちばんつらい思いをしたのは成人女性ですね。いつソ連兵が家の中に入ってくるかわからない、町を歩くのも危険だというので、断髪して風呂敷をかぶって5~6人で徒党を組んで買い物に行き、日の高いうちに帰ってくる、という状況だったんです。
テリー 断髪って、丸坊主にしたんですか。
宝田 ええ、女性だとわかってしまうのは、当時そのぐらい危なかったんです。