テリー そこまでの状況だと、お金の価値も一転しますよね。
宝田 もう日本円も満州のお金も使えませんから、ソ連軍が発行した「軍票」を使っていました。私がソ連兵を相手に靴磨きやタバコ売りをした時も、その軍票をもらったんです。
テリー 本を読むとよくわかりますけど、当時10歳の少年とは思えないほど、宝田さんはたくましいし、賢かったんですね。ロシア語もしゃべれたし。
宝田 ふだんから中国人やロシア人の子供たちと遊んでいましたから、片言ぐらいはしゃべれたんですよ。
テリー その時期に、命に関わるケガを負われたんだとか。
宝田 今でもここに残っていますよ(と、右脇腹を指さす)。ある時、走っている列車を見ていたんです。当時は関東軍が客車や貨物車に乗せられて、どんどん北のほうへ抑留されていた時で、うちも2人の兄が兵隊に行っていましたから。
テリー 帰ってこないお兄さんを心配されていたんですね。
宝田 ところが、もう少しよく見ようと列車に近づいていったら、中から兵隊が「帰れ、帰れ!」って言っているんです。「なんでだろう」と思っていたら、向こうからソ連の兵隊がタタタタッと走ってきて、こちらに72連発の自動小銃を撃ちまくってきたんです。それで転げ回りながら家に逃げ帰ったら、どうにも脇腹のあたりが熱くてしょうがない。見たら血だらけでした。
テリー 銃弾が当たったんですね。
宝田 ええ、母親に理由を話したら「バカ!」って叩かれましたけどね(笑)。
テリー 大変じゃないですか。どうされたんですか。
宝田 家には常備薬のオキシフルとかヨードチンキくらいしかないし、病院は全て閉鎖されているので、ウーウーうなっているしかないんです。やっと3、4日後ぐらいに母親が、軍医をリタイアして満州鉄道で働いていた人を呼んできてくれました。その時はもう傷口は腫れて、膿だらけでした。恐らく、バイ菌が入ったんでしょうね。あと、当時のソ連は国際法で禁止されていた鉛の弾を使っていて、「鉛毒」で肉が腐ってきていたんですよ。これは銃弾を取り出した時、初めてわかったんですが。
テリー わわ、それは聞くだけで痛くなってきます。
宝田 弾を取り出すのも大変でしたよ。イカを干すみたいなポーズで両手足をベッドに縛りつけられて、焼いて消毒した裁ちバサミをブスっと刺されて、麻酔もなしに切られたんです。今でも記憶に残っていますけれど、固い肉の部分を切る時はジョリジョリって音がするんですよ。
テリー 想像を絶する荒療治だ‥‥でも、その先生がいなかったら、破傷風でそのまま亡くなっていたかもしれませんね。日本に帰ってくるのは、それからどのぐらいあとなんですか?
宝田 それから1年半ぐらいですかね。ハルピンの最後の正式な引き揚げというのが始まるんです。その道中もまた大変でね‥‥何も食べるものがないまま半日や1日歩いたり。赤ん坊を連れている人の中には、その子を食料と交換している人もいましたよ。そのほうが、子供が生き残る確率が高いですから。
テリー いわゆる残留孤児ですね。
宝田 おっしゃるとおりです。日本人は利発だし、頭がいい。将来的にメリットがあると思って、現地の人たちも、子供を譲り受けたんだと思います。