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だが、これまで日本政府が「4島一括返還論」を国是として掲げてきたと誤解していた読者も少なくないだろう。その背景には、東西冷戦に揺れる世界情勢下で、日本政府の方針が二転三転したことに理由があるという。
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56年2月、日ソ共同宣言の締約直前に日ソ関係の雲行きが怪しくなる答弁がありました。当時の森下國雄外務政務次官が国会で「国後、択捉は放棄しておりません」と、これまでの政府の方針を“すり替え”たのです。これはのちにアメリカの意向が影響したとも言われていますが、いずれにせよ「平和条約」のはずが「共同宣言」にとどまった。
その後の60年には、日米安保条約改定もありました。この時、ソ連は「外国軍が駐留する国には領土問題は存在しない」と言って、4年前の日ソ共同宣言を反故にしてしまいます。相手が「領土問題はない」と言ったものだから、日本側も「じゃあ2島じゃなくて4島を即時一括返還しろ」と主張し始めました。これが今でも金科玉条のごとく言われるキッカケです。
そして両国の関係が大きく変化するのは、91年にソ連が崩壊し、ロシアが誕生してからのことです。エリツィン初代大統領は、
「北方領土は未解決の地域である。戦勝国と敗戦国の垣根を取り払い、法と正義に基づいて話し合いで解決する」
と、交渉開始を示唆した。それで日本側も平和条約締結の前提を、「4島一括返還」ではなく、「4島の帰属の問題を解決」という大きな政策転換をしたのです。事実、橋本政権、小渕政権、森政権の時代、私も第一線で活動していましたが、この頃の日本政府は、「まずは歯舞と色丹を返してもらう。そのうえで、残る2つもなんとかこっちに引き寄せよう」という、「2+2」で動いていました。
01年3月の森喜朗総理とプーチン大統領との日ロ首脳会談後には、「イルクーツク声明」を交わし、日ソ共同宣言に基づいた領土問題の解決について両国が協力する方向で一致するところまで、ようやくこぎつけたんです。ところが、その1カ月半後には、小泉(純一郎)総理が誕生。日ロ関係は瓦解してしまいます。
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良好だった日ロ関係に暗雲が垂れこめたのは、冷戦時代に逆行するような「4島一括返還論」を主張したからにほかならない。これにより、雪解けムードだった両国の関係は、一気にソ連時代のように冷えてしまう。鈴木氏が述懐する。
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プーチン大統領にしてみれば、「俺とヨシ(森喜朗)の約束はどこにいったんだ」との思いだったでしょう。
さらに当時の田中真紀子外務大臣は「日ロ関係の原点は、(4島返還問題の存在をソ連に認めさせた)昭和47年の田中・ブレジネフ会談だ」と発言。
田中さんの次に就任した川口順子外務大臣も、森総理提案の並行協議を取り下げ、ロシア側の日本に対する不信感はさらに高まりました。ここから北方領土問題がまったく進展しない「空白の日ロ関係10年」が訪れたのです。