「土俵人生に一片の悔いもございません」の言葉を残して引退した稀勢の里。19年ぶりの日本出身横綱として“モンゴル互助会”の撲滅を期待されていたにもかかわらず、在位2年で土俵を去ったのだ。
1月22日発売のアサヒ芸能では、稀勢の里の、彼を引退に追いやった親方との確執や、ガチ相撲で満身創痍となった肉体の状況をつぶさに報じている。
昨年11月、横綱審議委員会(横審)から「激励」を言い渡され、もう休場のできない土俵際に追い込まれていた稀勢の里だったが、体調は厳しい状況だった。スポーツ紙デスクが話す。
「12月22日、18年最後の巡業が茨城県土浦市で行われましたが、横綱の地元の牛久市からほど近い場所の巡業地にさえも顔を出せない状況だった。その時点で、初場所で引退濃厚と見て準備を始めたものでした」
その後の12月30日の稽古納めでは、弟弟子の大関高安(28)を相手にした三番稽古(同じ相手と取り続ける)で15勝3敗だった。スポーツ紙記者が話す。
「1月7日の横審による稽古総見は、横綱の鶴竜(33)と大関の豪栄道(32)との申し合いで6番取り、3勝3敗とやや精彩を欠いたが、9日に行われた二所ノ関一門の連合稽古では一変し、昨年の九州場所で初優勝した新関脇の貴景勝(22)相手の三番稽古で8勝1敗と圧勝でした。ただ高安と高景勝が崖っぷちの稀勢の里の弱点を攻めるような動きに乏しく、横綱の気持ちを盛り上げようとしているようにも映り、周囲の不安は消えなかった」
なぜ稀勢の里はそこまで追い詰められたのか。1月22日発売のアサヒ芸能1月31日号で徹底レポートしている。