年間最多勝も獲得した稀勢の里が、横綱昇進に足踏みを続けている。毎場所、期待を抱かせ、強い相撲を取るには取ってきたが、肝心のあと一歩が届かない。その原因は、所属する部屋の惨状、そして師匠との不仲にあったのである。
大関・稀勢の里(30)と所属する田子ノ浦部屋との関係を端的に表す、相撲関係者のこんな証言がある。
「あれは昨年9月の秋場所が終わったある日のこと。稀勢の里は、部屋付きの西岩親方(40)=元関脇・若の里=の自宅でチャンコをごちそうになったそうです。所属する部屋でチャンコを食べない。それ自体、異様なことですが、そういうことが時折、あるらしい。西岩親方はチャンコだけでなくステーキも食べさせて、稀勢の里の日頃の鬱憤を聞いてやったそうです。天下の大関が部屋で腹いっぱいチャンコも食べられない。これでは綱取りどころではないな、と同情しましたよ」
稀勢の里を筆頭とする部屋の力士たちが慕っているのは田子ノ浦親方(40)=元前頭・隆の鶴=ではなく、西岩親方──。その原因の一つは、田子ノ浦親方が部屋を持つことになった経緯に潜んでいた。
そもそも、稀勢の里は鳴戸部屋所属の力士だった。だが、先代・鳴戸親方(元横綱・隆の里)が11年11月に急死。相撲ジャーナリストの中澤潔氏が言う。
「隆の里亡きあと、部屋は誰もが若の里が継承すると思っていたんですがねぇ。蓋を開けてみたら、隆の鶴が継承した。隆の鶴自身も『イヤだ、イヤだ』と逃げていたんですが、女将の気持ちを受け入れて、鳴戸部屋を継いだ。隆の鶴は最初からヤル気がないうえ、ちゃらんぽらんで、はたして生真面目な稀勢の里と合うだろうか、と心配していたんです」
いったいなぜ、先代の女将は隆の鶴に部屋を託したのか。中澤氏が続ける。
「それは若の里より御しやすいからですよ。でも相撲界という世界、未亡人がしゃしゃり出てくるとロクなことはない、と昔から言われている。案の定、まったくそのとおりになった」
鳴戸親方になった隆の鶴は千葉県松戸市の鳴戸部屋で起居したが、先代女将が院政を敷いて実権を握り、弟子の養成費などはみずからの懐に入れたと言われる。
「当時、北の湖理事長が主導する相撲改革が着々と進められていた。その際、相撲協会が公益財団法人に移行するのに伴い、年寄名跡を一括管理することになり、隆の鶴は年寄株の証書を提出するよう北の湖理事長から求められました。そこで隆の鶴は証書の所有者である先代女将と話し合いましたが、交渉は難航。隆の鶴は空いていた田子ノ浦の年寄株を買って、女将と決別したのです。鳴戸株は現在、元大関・琴欧洲が継承していますが」(前出・相撲関係者)
かくして鳴戸部屋は消滅し、稀勢の里らはヤル気が乏しい師匠の下、田子ノ浦部屋の所属力士となった。