淳子のデビュー曲「天使も夢みる」(73年2月)を作曲したのは、日本テレビ「スター誕生!」の審査員でもあった中村泰士だ。同じく審査員の阿久悠と“エンジェル”というコンセプトのもとに、それぞれの立場から淳子を見た。
「やはり最初の頃は歌っていても、音程を探るうちに秋田なまりが出ていた。それを気にするとノドを締めるクセがあって、どういう歌い方にしたら、彼女のボイスに色を出せるんだろうかと思ったね」
中村が参考にするようにと聴かせたのは、いしだあゆみのレコードだった。鼻濁音をうまくいかせる歌い方ができれば、彼女オリジナルの歌唱法が完成するはずだと。
それは3作目の「わたしの青い鳥」(73年8月)で開花し、続く「花物語」(73年11月)の冒頭のセリフから完全に自分のものとなった。
「レコーディングに慣れてきたというのもあった。百恵も最初はそうだけど、マイクを臆病がると声を締めつけてしまうから」
中村はレコードにおいて百恵を担当することはなかったが、グリコのCMで機会をともにしたことがある。ちょうど百恵が「青い果実」(73年9月)を歌い、性典路線に転じたやさきだ。
「僕の憶測だけど、彼女はきわどい歌詞であることにとまどいを感じていたようだった。ただ、百恵の歌唱をブースで初めて聴いたら、リズム乗りがすごくいい。百恵も淳子と同じで1オクターブ半しか音域がなかったけど、ファルセットを使わないことにオリジナル性も感じた。だから『迷わないで、いつか必ず大ヒットが出るから』って言ってあげたんだ」
百恵は中村に向かい、キラリと目を輝かせたという。その予言は、そう時間を置かずに実現することとなる。また阿木・宇崎コンビでロック系のヒット曲を量産したことには、あのリズム感が根底にあったからと納得した。
そして中村は次々と淳子の新曲を手がけていったが、最大ヒットとなった「はじめての出来事」(74年12月)は森田公一と交代する。森田も「スタ誕」の審査員ではあったが、これには理由があった。
「僕もあの曲は書いていたけど、あえて『これは俺じゃないほうがいい』って思った。降りたわけじゃないが『森ちゃんのほうが勢いがあっていいんじゃないか』って。結果的に僕の匂いと違うものができ、大ヒットにつながったと思う」
中村は阿久悠とともに、淳子はどんな魅力的な女性に育っていくんだろうかと話したことがある。そのやさきに、ヒゲを伸ばし始めた中村に周りが「汚い!」と猛反発する中で、ただ1人、淳子だけは別のことを言った。
「先生、似合うから剃らないでね」
その一言がとてもうれしかったと言う。そんな中村が最後に淳子のシングルを提供したのは「冬色の街」(78年12月)だが、実は幻となった楽曲があった。80年8月に梓みちよで発売になった「小心者」がそれで、いつか大人になった淳子に歌ってほしいと、作詞も含めて精力を傾けた。
「ただ、彼女の事務所に『これは大人すぎる』って言われちゃったんだね。そのうち都はるみさんが『私が歌う』って言い出したけど、それは僕がノーを出した」
できれば淳子が歌える年齢まで封印しておきたかったが、めぐりめぐって梓の歌唱となった‥‥。
もし今、淳子のカムバックが実現するのなら、中村は「ぜひ望むところ」と断言する。