「全国3000万人の百恵&淳子ファンの皆様、こんばんは」‥‥徳光和夫流のナレーションで〈歌謡曲の黄金期〉を振り返ってみたい。73年にデビューした2人は、芸能界だけでなく、「日本テレビ最大の危機」にも救世主となる。徳光には、2人それぞれに「忘れえぬ瞬間」があった─。
「だったら、そっちが番組の時間を動かすか、終わらせればいいじゃないか!」
開局から60年を迎えた日本テレビにとって、存亡の危機が73年に起きた。当時の芸能界の巨大帝国である渡辺プロが、NET(現テレビ朝日)と組んで、月曜夜8時に新たなスター発掘番組を始める。そのため、同時間の日テレの看板番組である「紅白歌のベストテン」に、渡辺プロ所属の歌手は出せないという。
冒頭の言葉は、渡辺プロ側が協議を求める日テレに突きつけた“最終通告”である。
この圧力にひるむことなく、日テレは「ナベプロ抜き」で歌番組を作っていくことを決意。その戦いが始まった「73年4月」に前後して桜田淳子と山口百恵がデビューし、そして徳光和夫が「─ベストテン」の司会に加わった。
「その絶縁時代に渡辺プロからデビューしたテレサ・テンとは僕はほとんど会っていないし、天地真理とも顔を会わせなくなった。そこに中3トリオが出てきて、僕らは『ウチの』という言い方をするんだけど、日テレ出身の歌手という認識でしたね」
徳光は番組で顔を合わせるだけでなく、淳子のリサイタルの司会を受け持つこともあった。誰もが「スター誕生!」の予選で“吉永小百合の再来”と評したことには、まったく異論はなかった。
そして徳光は淳子が生まれ育った秋田の実家を訪れ、感銘を受ける。
「取材とかではなく、何かの仕事のついでにプライベートで桜田家を訪ねたんです。ちょうど淳子ちゃんも帰ってきていて、きりたんぽ鍋をご馳走になった。今まで六本木の高級店で食べたりもしたけど、あんなにおいしかった記憶はなかったですね」
淳子の母親を見て「秋田美人」という言葉の意味がわかった。角館市を中心に、京都の公家の流れをくむ系統ではなく、湯沢市に生誕説がある小野小町のような顔立ち。それを受け継ぎ、現代風になったのが淳子ではないかと思った。
桜田家では近所の人も集まり、陽気な「秋田音頭」で輪になり、その歓待を徳光は今も忘れないという。
「あの家庭環境は本当にすばらしく、彼女の根底にずっと残っていくだろうと思えたくらい」
歌手としての淳子は、ややセールスが落ち込むこともあったが、中島みゆきの提供による「しあわせ芝居」(77年)で新境地を開く。徳光の目には、プロフェッショナルでありたいとする姿勢が見えた。
「たとえば百恵ちゃんは自分を高めてくれる人を選んで吸収するが、淳子ちゃんはすべてに貪欲。デビュー当時は歌のうまさで森昌子、かわいらしさが淳子で色っぽさが百恵という感じだったけど、このあたりから淳子ちゃんが女っぽいプロポーションになってきた」
それはダンスレッスンによるものではなかったかと徳光は記憶している。やがて女優業に活路を見出した淳子は、高い評価を受けながらも、ちょうど20年前に公開された「お引越し」(93年)を最後に表舞台を去った。