「トクさん、すごい子が出てきた! 14歳にしては不思議な色気があるんだ」
徳光は「スタ誕」のディレクター・金谷勲夫から鼻息荒く言われたものの、残念ながら百恵のデビュー曲「としごろ」を見る限りでは首をひねった。その若さでロングスカートをはき、歌声にもさほど魅力を感じなかった。
そんな百恵は、2曲目の「青い果実」から変貌を遂げる。スカートの丈は短くなり、歌詞にも危険な匂いを秘めた“青い性典シリーズ”が当たった。とたんに、周囲から注目されていたことを感じた。「情報番組をやっていたので、50代や60代の日本のリーダーたちと話をするんです。そうした人たちが、デビュー間もない百恵ちゃんのことをよく知っている。なるほど、最初は脚の太い女の子という印象だったのが、唇や体型など魅惑的に映るんだなと思えた」
初期の性典シリーズや、決してアイドル路線ではなかった「赤いシリーズ」など、ギリギリの“境界線”を歩きながらも、来たチャンスは確実に生かしてゆく。そこからステップアップして、宇崎竜童&阿木燿子のような存在と結びつく。
「自分で設計図を書ける最初にして最後のアイドルだったでしょうね」
徳光は百恵のデビュー間もないころ、番組のレポーターとして横須賀の実家を訪ねたことを思い出した。事実上の母子家庭であり、母親が病弱ということもあって決して裕福ではない環境にあった。
「彼女は本当に歌手になりたかったのか‥‥。おそらく、てっとり早く収入を得るために、歌手という世界への“就職”だったんだと思う」
百恵は中学3年で歌手デビューし、ホリプロから初めての給料をもらう。月に5万円という金額だったが、ここから半分が下宿代、さらに定期代や衣装代、譜面代などが引かれ、実質は赤字であったという。デビュー間もなくは母親からもらうわずかなお小遣いが支えであった。
百恵は目に見えてのガムシャラではなかったが、徳光が言うように「チャンスは逃さず」に、家族のためにも収入を飛躍させることとなる。
徳光は「中3トリオ」が「高3トリオ」になり、卒業を記念した赤坂・豊川稲荷の植樹に同行している。今も3人の記念樹は境内に残されているが、百恵に「何をお祈りしたの?」と聞いた答えは以下のものだった。
「素敵なボーイフレンドができますように」
早熟に見える百恵の高校3年時としてはあどけない答えだが、後に夫となる三浦友和を「初恋」と呼んでいる。そして、その絆は今も薄れていない。決してアイドル的な受け答えでなかったことがわかる。
やがて2人は79年10月に恋人宣言をし、80年11月に華燭の典を挙げ、百恵は芸能界から“寿退社”をする。徳光は披露宴のサブ司会を務めているが、その前にどうしても謝っておきたいことがあった─。